会員寄稿1  2004年~2011年

   2011年6月、フレンチ・オープンを見ての私の今後の練習課題
     (2012年度会誌より)  飯田武雄 (枚方市 イイダ耳鼻科)
   個人的テニス事情の現状報告 (2011年度会誌より
     飯田武雄 (枚方市 イイダ耳鼻科)
   テニスに関する時間無し (2011年度会誌より)
     角辻格 (高槻市 角辻医院)
   テニスと私 (2010年度会誌より)
     飯田武雄 (枚方市 イイダ耳鼻科)
   在上海網球体験(2010年度会誌より)
     上杦裕子 (城東区 済生会野江病院 内科)
   ちょっと すご~く いい話! (2010年度会誌より)
     原統子 (池田市 原医院 小児科)
   テニス肘 (2008年ど会誌より)
     福田眞輔 (港区 多根第二病院)
   私のテニス「夫婦でストローク」(2008年度会誌より)
     南原征哲 (箕面市 南原皮膚科)
   モンゴル紀行(2008年度会誌より) 
     江本敬 (豊中市 江本医院)
   イザワ クリスマスオープン観戦記(2008年度会誌より)
     菱谷好高 (豊中市 菱谷医院)
   『噛ませ犬』(2007年度会誌より)
     近藤元治 (京都府立医大名誉教授 高槻市 藍野病院院長)
   テニス部とロマネコンティ(2007年度会誌より)
     川口憲明 (高槻市 川口医院)
   異常事態 西医体(2007年 西医体観戦記)
     豊中市 緑ヶ丘病院外科 原文雄
    筋トレのすすめ(2006年度会誌より)
     亀岡市 亀岡市立病院麻酔科 橋本朋子
   テニスはやっぱりシングルス! 何が何でもシングルス!!
     (2006年度会誌より)
     港区 大阪船員保険病院放射線科  中西克之
   私とテニス(2005年度会誌より)
     旭区 伊藤小児科医院  伊藤 謙吾
   なぜ、今テニスをしているのだろう?(2005年度会誌より)
     枚方市 香里ヶ丘有恵会病院外科 山田修
   テニスはいつまでできるかな(2005年度会誌より)
     池田市 前田クリニック 前田 育子
   ”中古オムニ激安移植に成功した希な一例”(2005年度会誌より)
     豊中市 緑ヶ丘病院 原文雄
   ”中古オムニ激安移植に成功した希な一例”に一言"(2005年度会誌より)
     豊中市 江本医院 江本敬
   テニス雑感(2004年度会誌より)
     豊中市 星野医院 星野 嘉明
   夕暮れ時のテニス(2004年度会誌より)
     大正区 大阪府済生会泉尾病院内科 小西 正人
 

        

20116フレンチ・オープンを見ての私の今後の練習課題
                      (2012年会報より)

                 飯田武雄 イイダ耳鼻科(枚方市)

*まえおき

 私は常日頃から、自分の練習、試合、世界的なビッグ・タイトル観戦後、必ず、その日の内に、テニス日誌を書いて、今後の練習課題、反省点、目標としています。

 フレンチ・オープンは世界のトップ・プロの赤土コートでの試合です。当然の事ながら、彼等彼女達の試合を見て、益々、自己嫌悪になりました。優勝はスペインのナダル、女子は混戦と激戦の末に中国のリー・ナでした。

 今更ながらですが、改めて、基礎体力、サーブとレシーブ、選手と観客のマナーの大切さを再認識しました。

*以下、今後の私の練習課題です。

 1)サーブ。

 トスを高く上げて、タメを作り、ボールがラケットのガット面に当る瞬間をよく見て、肩、腰の回転と、左手のバランスに注意して、左足の蹴りを十分に入れて、相手と戦況に応じて、センター狙いならフラット球で、角度をつけるならスライスで、コースに迷ったら、相手のボディーを目標に打つ。但し、余り目標点を意識すると、フォームが小さく、体が固く、ボールをラケットに合わせて、ただ当てに行くだけの感じになるので、目標を頭の中でイメージしたら、ゆったり、大きなスイング・フォームで、ボールを鋭く打ち抜く事に専念する。

 2)レシーブ。

 フォアハンドで返す時はドライブ気味に、バックハンドで打つ時はフラットか、スライス気味でボールを、たたく感じで打つ。特に相手がサウスポーの時は十分に、この事を認識する。

 3)ストローク。

 打つ瞬間に、ボールをよく見て、特に浅いチャンスのアプローチショットのときのフォア・バックハンド・ストローク共に、ストレート・コースのボールは相手の位置及び、来たボールの質により、フラット、スライス、ドライブで打つか、瞬時に判断し、思い切って打ちネットにつめる。

 4)ボレー。

 基本的にはできる限りスライスで、チャンスボレーはフラットかドライビングボレーで攻撃的に打ち返す。又、ローボレーはスライスで、ショートバウンドのボールはラケットをネットと平行な面でフラットに打つ。

 5)ロビング。

 緩いボールに対してはフラットか、スライスで返す。速くて強いボールはラケットを立て振りのドライブで打つ。

 6)スマッシュ。

 サーブの感覚で、タメを作り、左肩を入れて、普通に軽く振り抜く、特に緩い返球をする時には、相手の予想の逆、フェイントで打ち、余裕のある時は、コースに拘らずに、体重をボールに乗せて、思い切り打てば、たとえ返球が返って来ても、チャンスボールが来るから。次に再びボレーか、スマッシュで決める。

 7)まとめ。

 総じて、都合のよい攻撃的な事ばかりを書きましたが、『攻撃こそ、最大の防御です』でも、本音を言えば、私、2030才台の頃は体重55㎏でしたが、現在は80㎏で超メタボです。前記のモロモロの事は、十二分に頭の中では判っていても、フットワーク、動態視力、反射神経の衰えに、イライラしている、今日此の頃です。

                (2011年、平成236月記)



個人的テニス事情の現状報告(2011年会誌より)

                    枚方市 イイダ耳鼻科 飯田武雄

1)練習

硬式テニス 所謂 硬庭を始めて、早や約50年近く過ぎました。今の目標は、80歳まで現役プレイヤーを目指しています。今、当年65歳だから、後15年は頑張ります。

 毎週木曜日の午後、近くのクラブのプロコーチにプライベートレッスンを受けています。この頃は主に①ボレー・ボレー ②ローボレーとハーフバンドのボレー ③サーブ・安堵・ボレー ④シングルスの試合練習等を順に行っております。

 自分が4050歳ころまでより、明らかに最初の一歩の反射神経、足の運びのスピード、スタミナ、どれをとっても、年々その衰えに歯がゆさを味わっています。

 守りのテニス、攻撃的テニス、相手に合わせて、そのミックスのテニス。私は、まだ自分では思い切りアグレッシブな攻撃的な戦法のテニスを目指していますが、いつも、昔はあの位の球なら楽々と追いつけたのになーの連続で、もっと頭脳的な省エネの戦法に変更しなければと思っているこのごろです。

2)メンタル

 以下は私の経験的な持論です。;現在の世界のテニス界に於いてのトップは、フェデラーとナダルです。フェデラーは攻撃しながら守備もできるし、守りながら攻撃も出来ます。又、以前のナダルはドライブ球での繋ぎながら鋭角やストレート・ボールでのパッシングショットで得点していましたが、近年は徐々に、短いボールに対してはネット・ダッシュしてポイントを取る様になり、年齢的に、ロングゲームではスタミナの点でフェデラーを追い抜ける所まで来ています。両者を比較すると性格的には、外見上だけですが、フェデラーはオールラウンドプレーヤーで、静かな闘志を持っているが柔和ですが、ナダルは冷静に見えても、ギラギラとした攻撃的性格が顔の表情から推測できます。

 私がこれまで観戦したり、対戦した相手を思い起こせば、超一流の選手は正攻法な戦術ですが、二流の人は本当にいやらしい戦法や試合以前の問題で、こちらの心理の逆をワザと突いて来ます。だから一流になるには、このイヤラシサを経験し、通過しなければ一流にはなれません。私は生まれながらに短気で、正直なので、いつまでたっても、一流にも二流にもなれないでいます。精神、技術の目標は高いですが、今の所、日暮れて、道、遠しの感じです。

                          平成222月記



テニス関係にする時間無し(2011年度会誌より)

角辻 格 角辻医院(高槻市)

まず始めに、この文章を読もうと思っている方、よっぽどお暇な場合ならいざ知らずですが後悔しないために次の先生の原稿をお読みになることを強くお勧めいたします。尚、この勧めにも耳を傾けずこのまま読み進んでいる頑固な、いや、失礼しました、意思の強固な方はもしかしたら脳動脈硬化が進んでいるかも知れませんので一度検査をお勧め致します。

 さて、これで読み手はいなくなったはずですが、世の中にはへそ曲がりで天邪鬼な・・・あ、いや官房長官並みの失言でした・・・世の中には非常に意思のお強い方が居られますので、一応やはり文章は書いておかなければいけませんのでとりあえず文面を埋めるために原稿を書くことにいたします。開業医になり論文も書かなくなり著しく狭い世界になった自分の生存確認としての寄稿と考えさせていただきます。これだけを読むと会誌に対して不遜だ!!とお怒りになるお方もおられるでしょうから・・ いや、ここまで散々読まない方が良いと書いてきたのだから、それでも読んで、且つお怒りになられる方なので、うーん、「頑固でへそ曲がりで天邪鬼で怒りん坊」の方のためにひとこと付け加えておきますと、この前口上は決してこの冊子に対するものではなく、駄文しか書けない自分への言い訳ですので悪しからず。

 私にしてみれば今回の寄稿は1113日に行われた理事会で決まったことで、当日は所用で欠席した私にとっては後日にメールを見て鳥肌が立つほど驚いた突然の原稿依頼でした。誰かにそれを頼めるわけでもなく、どうしようかとうろたえている間に12月になってしまいました。確か締め切りは12日だったような。

 悠長なことを言っていれば12日などすぐに来てしまうだろうし、かといって取り立てて書く題材も見当たらず、朝鮮半島や尖閣問題、民主党政権の評論など書こうかとも思いましたが、政治と宗教の話題には触れないに越したことは無いのでそれもパス。こうなったら私的な話題で勘弁してもらうしか無いかなと考えたところそれも思い浮かばず、このまま12日を迎えそうな雰囲気になってまいりました。はて、1212日・・。これは何か幼少期から印象に残っている日です。昔、私の祖母が毎年1212日に「十二月十二日」と名刺の半分程度の小さな半紙に墨で書き、それを逆さ向けにして家の窓に張って回っていました。泥棒よけだったそうです。母親が恐れていた姑が家の窓という窓にその紙を貼って回る様は、幼心に里見八犬伝の玉梓が怨霊のようで強烈なインパクトが残っており、その印象もあり1212日は忘れることがなさそうでしたので6年前に婚姻届を出すことにした、つまり結婚記念日とした日でした。おかげで結婚記念日の日付は忘れませんが、結婚記念日=玉梓が怨霊というあまりよろしくないイメージがあります。

 実はこの1212日という日は、とある俳優と女子プロゴルファー夫婦も同じ結婚記念日で、その方々はH21年に籍を入れたので私たちの方が5年ほど先輩に当たります。縁あって今年(H22年)の8月に行われた彼らの結婚披露宴に参列したのですが、一番驚いたのが新郎の友人とのことで出席されていた自民党の元首相が、新郎と同じ年ということでした。もうひとつ驚いたのはその元首相が乾杯の挨拶をされたのですが、TVでは何とも冴えない感のあった人物像でしたが、披露宴での挨拶は澱みなく実に軽妙で、聞いていると引き込まれていってしまうような挨拶でした。やはりTVの世界と現実とは違うのだなと痛感しましたし、政治家という方々は総じてそのような弁の立つ方ばかりなのだろうと感じました。そう考えると現首相もきっと何もない非公式の場では饒舌でかつ説得力のある話をされることなのでしょうが、首相としての公式発言となると民主主義国家の宿命か、周囲を気にしての発言をしないといけなくなり結局何もいえなくなるということなのでしょう。全てにおける対応の遅さや拙さをマスコミに指摘されていますが、結局何をしても批判の対象になり、可哀想と言えば可哀想な立場ですね。それに比べると38度線の北側の国と昨年(H21年)のオリンピック開催国は片や完全なる独裁者国家、片や開かれつつある経済大国を謳った一党独裁政権と両国ともに世論や他政党などを気にせず物事を進められる人々だけに、強く、早く、変わらない、ですね。おっと知らぬ間に政治の話になってしまっていました。

 本題はありませんが、本題に戻り・・・

 その結婚式でもう一つ感動したのは、歌です。壇上で歌った当のご本人も自分で反社会勢力に間違えられると言っておられましたが、まさしくそっち系の方と見紛うような風体で「大空と大地の中で」という曲を歌い上げられました。このスキンヘッドのおじさん、歌がなかったら間違いなく反社会勢力の方でしょう。北海道で収監された議員と新党大地を結成されていたので一応は「正?」社会勢力の方なのでしょうが・・

 しかし、音響も悪くカラオケで歌っているにもかかわらず、これまた引き込まれるような歌声で、生業となるだけのことはあると妙に感心してしまいました。

 このような歌も含めた一流の芸術や一流のスポーツがすばらしいのは素直に感動できることからなのでしょう。そこには万人の持っている善悪の両面性のうち悪の部分があまり見えないからなのだと勝手に解釈しています。物事から悪意が感じられると人は感動せず、また、邪心が多いとスポーツにおいては結果を残すことが困難となり、自然にそのようなものは大衆の目に触れるところまで残らない。逆に言えば、私たちがマスコミを介して目にし得るものはそれらの中で淘汰されずに残った一流のもの或いはマスコミの描いた虚像に乗せられるとみなされたものだけなのでしょう。後者の最近での典型はボクシングの3兄弟でしょうか。彼らは最初はマスコミに時代の寵児のように扱われ、その後彼らの父親を交えた品位の無さ等を絡めてこき下ろされました。一体マスコミはどういう彼らを作り上げたかったのだろうか?と感じたのは私だけではないと思います。

 朝鮮半島38度線以北の国々などのように明らかに情報操作された中での生活もしたくは無いですが、言論の自由を都合の良いように解釈して、おもしろおかしく且つ扇動的報道をする日本のマスコミにも辟易してしまいます。この情報氾濫状態の中で何を真実として受け止めていくかと言うことを日々考えながら数多の情報を処理することが必要なのだと思いますが・・・、世知辛い話です。そういう日々の生活に疲れたときは自然や芸術を見て綺麗だなぁと感動したり、スポーツを見て単純に勝った・負けた、入った・出た、上手いなぁ・凄いなぁ等と感動することで心が癒されているのでしょう。更に一流を真似て自分もそのような気分になり、同じようなことが出来たときに達成感、充実感などを感じるのも良いでしょう。しかし、自分では出来ているつもりでも傍から見れば一流とは程遠い滑稽な格好になっていることがしばしば。たまにしか練習しなければ当然ですね。でも楽しくすることがやはり一番なのではないでしょうか。

 そういえば、芸術と言うと、日本伝統芸術の歌舞伎が本来とはかけ離れたところで世間の注目を浴びています。この会誌が出る頃にはある程度の決着が着いているはずで時代遅れなネタでしょうが、またまたマスコミの加熱報道で、もっと伝えないといけないことは国内外に沢山あるだろうにと思われるのに朝から晩までどこもかしこもこの話題でもちっきりです。「梨園」の人間が「リオン」に殴られ「離縁」ってことにならなければ良いですが・・・(これだけ知っていれば私も十分マスコミに扇動されている人間の一人です)

 何か明確な主題無しに書くと、結局訳の分からない文章になり、最終的に何が言いたかったのかと言われると、スポーツや芸術はたいてい素晴らしく、日本のマスコミは往々にしてよろしくない。と1行で終わってしまうような内容でした。あ、いや、間違えました。この文は読まないほうが良いと言うのが明確な主題でした。ですので、文頭にしつこく読まないほうが賢明ですと明記したにも拘らず、万一、この文章を読まれた方が居られても、一切のクレームは受け付けませんし、時間を返せと仰られてもお返しすることは出来ません。

 最後になりましたが、再三の読まないほうが良いですとの勧めにも応じて頂けずに最後まで読まれた、もはや「分からず屋」に分類される方に一言、おそらくこの会誌が発行される頃はH23年始めでしょうから、今年も怪我無く元気に1年間過ごせるよう陰ながらお祈りいたします。

ここまで書き、テニス協会への寄稿であったことを思い出しました。テニスのことを主題にすれば良かったと今更ながらに思いましたが、今から書き直す気力・体力・時間は無く、せめて題名にすることにしました。もし「テニス関係にする時間無し」という題名を見て、あぁこの人はテニスに係わる時間も無いほど仕事をしているのだろうか?などいろいろな想像をされた方が居られたなら、私の貧困な発想からの題名であったことをお詫びいたします。それこそ時間が無く、題名を2日間も考えましたが出てきた題名がこれでした。

もし、また恐怖の寄稿依頼が来た場合はもう少しwitに富んだ題名と、今度こそはテニス関係のことでも書こうと考えております。



テニスと私  

 ……………………………………飯田武雄  イイダ耳鼻科(枚方市)

平成2110月、台風18号通貨の後の3日間、
広島県福山市と尾道市で行われた第
36回全日本医師テニス大会に参加しました。
私にとって全国大会参加は3回目です。
1回目は平成14年の第29回の京都大会、2回目は昨年の兵庫大会でした。
各大会共に、その年の自分の練習量と、その時々の体調に比例して、自分に納得した試合結果でした。日頃の練習で努力すれば、正しい結果が出るという信念で、毎日を 診療に テニスに それなりに出来る限り頑張っております。

 例えば、シングルスの試合前に、こんな広い場所を何十分も一人で走らねばと思う時は調子が悪く、闘争心が湧いてきません。
反対にコートが狭く見える時は調子が良い時です。又 試合前の簡単なサーブ練習で、体が軽く調子が良い時は却って、試合でボンミスが多くなり、逆に悪い時はボールを慎重に良く見て、ボンミスが少ないです。


 教訓を得るのは、過去の勝ち試合より、負け試合の方が、ずっと記憶に残っています。

もっと粘ってから攻撃をした方が良かったとか、短気にアグレッシブに成り過ぎたとか、こちらのマッチポイントで、相手の打った中ロブのスマッシュを失敗した為に逆転で負けたとか、サーブ権の有る者がポイントをコールしないとか、私の打ったボールがオンラインの時は全てアウトとコールされたり、マナーの悪い相手には、すぐにカリカリします。
いつも心の中で紳士のスポーツだから、フェアプレーで行こうと、つぶやいています。


我々の学生時代は全てクレーコートでの試合だったので、シングルスでは粘り粘りのテニスで、相手よりより多く走り、よっぽどのチャンスボールの時に、ストレートが左右のショートクロスを打って、ネットにしか出ませんでした。勝ち試合は当然に、こちらがサーブもそこそこ入り、ストロークミスも少なくて勝った試合ばかりでした。

大学を卒業してからは年々足が動かなくなり、走れなくなり、少々無理でも果敢にネットにつめて勝負に出ます。シングルスでは長い球足のクロスとストレートのストローク、ダブルスではサーブ、ボレー、ロビング、スマッシュの差が当然に試合を左右します。
これからはフォアのライジングのストロークショットとドライビングボレーを研いて練習に励んで行こうと考えています。
思いつくままの、拙い雑文で 失礼いたしました。

                         (H211120日 記)




在上海網球体験

                   …………………上杦裕子   済生会野江病院 内科(大阪市城東区)

 テニス四大大会につぐマスターズ大会が9つの市で開かれます。
ケーブルテレビで観戦されている方もおられるのでは。その中で唯一アジアで開催の上海大会は
10月に開催されました。テレビでしかみていない憧れの選手達の夢の試合を見に、三泊四日の観戦ツアーに行ってきました。郊外にある旗忠森林網球中心(テニスセンター)であります。木蓮の花をイメージした開閉式の屋根のセンターコートが幻想的です。
観戦は午後からで、午前は自由時間です。あらかじめネットで調べると、上海体育館の敷地内に網球中心というのがありました。もしかしたら中国の人とテニスを通じて交流できるかもと期待していました。
 
金曜日の夜につき上海体育館網球中心に電話してみましたが、話しが通じずコートの予約は断念。翌朝だめもとで行くことにしました。
 土曜日朝、太極拳の人達を見ながらたどり着くと計六面のハードコートがありました。「阿叫」とは言いませんが熱く打ち合うコートがほとんど。入れそうにありません。しかし二人でぽつぽつ打っているコートがありました。玉を拾いにこちらにきた一人に、声をかけ(May I play with you?と言ったような気がします)ると、図々しいお願いを快く受け入れてくれました。ロシア人でご夫婦の様子、「こんにちわ」と日本語であいさつしてくれました。私は英語は旅行できる程度、中国語は簡単な言い回し、ロシア語は「ハラショー」「ピロシキ」くらいです。ロシア人テニス選手の名前なら沢山言えるのですが。男性とシングルスの試合をすることになりました。一応はじめての国際試合。猛然と張り切り、構えのとき、膝の角度は90度くらいで、足幅は肩幅の倍だったかも。全力をつくし62で勝ちました。悔しかったかロシア人が、「Tomorrou OK?」と聞いてきました。「Yes!」と答え、翌早朝に空いていたコートを予約しました。
さて午後からのマスターズ大会ですが、準決勝はダビデンコがジョコビッチを、ナダルがロペスを下しました。にわかにロシア人に親近感をもった私はダビデンコを応援しました。もともとダビデンコは私の贔屓の選手でもあります。176センチ、両手バックハンド、細身ながら強靭。高速で精密なフットワークとストロークが武器です。無表情で淡々とプレーする姿は、クールです。驚異的なショットを成功させても、嬉しがったりしません。フェデラーやナダルに隠れて地味ですが、長く三位のランキングにいましたが今は八位です。
日曜日朝コートにいくと、ロシア人がお仲間を連れてきていました。昨日の試合はだめだったから、今日は自分たちもきた、というようなジェスチャーをしました。練習の後にダブルスの試合をしました。いつもは失敗するショットが入ってしまい、またも私側が63で勝ってしまいました。そのあとわかったのですが、彼らもマスターズ大会観戦のため上海にきていたのでした。しかもラケットを持ってです。
 午後からはナダルとダビデンコの決勝戦です。スター選手ナダルに比べて、小さめなダビデンコへの応援。私は負けじとダビデンコを応援しました。声は聞こえたはずです(テレビ放送の録画で確認できました)。プレーに集中していますので声ははっきり聞こえないかもしれませんがサブリミナルには聞こえて、もしかしたら気持ちを後押ししたかもしれません。ダビデンコの勝ちでした。彼の精密高速ストロークがナダルの守備力を上回りました。表彰式でのスピーチでの、応援ありがとう、の言葉と笑顔が嬉しかったです。


 月曜日に帰国。練習か、テレビ観戦かの日々です。ダビデンコのようなフットワークとクールなプレーを目指しています(今はできてはいませんが)。
 ロシアの人、いれてくれてありがとうございました。テニス好きどうしの、気持ちが通じ合った気がしました。


ちょっと すご~くいい話!

てらおよしのぶさんの

Workaholic Web Blog
テニス観戦を楽しむブログ

でみつけた記事です。

大阪の靱テニスセンターにて開催されている「2009ワールドスーパージュニア」の
第一日目(1019日 月曜日)の出来事です。

(もちろん転載はてらおさんの許可を得ました。)

原統子 (池田市 原医院 小児科)

  ちょっと良い話。
  オーストラリアの Ben WAGLAND(上) 対 インドの Naveen SAAI(下) との対戦でのこと。
  ワグランド、ゲームポイントを握りサービスを放ちます。線審はフォルトの判定。
  サイ、落下点をちらっと見た後、すたすたベンチへ。ワグランドもベンチに戻り、
  すでに水を飲んでいるサイに向かって小さな声で "Thanks"。
  サイ、前を向いたまま無言。

  いや~、しっびれたねえ!
  まるで映画の一場面のよう。こういうことがさりげなくできるのってカッコいいね。
  審判の裁定さえ選手同士の判断で翻すことをよしとできる。
  テニスって素晴らしい競技だと改めて感じました。


テニス肘 (2008年度会誌より)

福田眞輔(港区 多根第二病院)

  
  近年我が国のテニス選手の世界ランキングは野球やサッカーにくらべ低いのでテニスはマイナースポーツと考えられ勝ちだ。しかい実際は若年層から老年層まで幅広い世代が親しむことのできる生涯スポーツの代表として我が国に根をおろしている(財団法人日本テニス協会によると国内のテニス人口は1100万人でありこれは推定野球人口の580万人の2倍近くで、国民の10人に1人がテニスをしていることになる)。テニスは瞬発力とスタミナの両方が必要な競技なのにそれによるスポーツ障害は少ないのが生涯スポーツとして人気がある理由だろう。ただ一つテニス肘というテニスの名を冠した障害があり悩んでいるテニス愛好家も多い。定年後の暇つぶしにこの疾患を文献的に考察したのでご笑覧のほどを。この障害に悩むテニスプレイヤーの方々に少しでも参考になれば幸甚です。


1)症状

自覚症状は肘関節外側(橈側)の痛みで手首の橈背屈(radial extension)動作で誘発増強する。例えばコップを持ち上げる、ビールを注ぐ、金槌を使うなどの日常動作が痛い。日常生活上の手関節運動は純粋の掌背屈動作は少なくてほとんどはdarts throwing動作に代表される橈背屈(radial extension)から尺掌屈(ulnar flexion)への運動なので日常の手に物を持って使う動作の大部分が肘の痛みを伴うことになり罹患者には相当にうっとうしい。この症状に加えて肘外側(上腕骨外上顆)の圧痛と、抵抗を加えながら手首を背屈させると(wrist extension test)症状が誘発されると診断は確定する。

(2)疫学

一般人口におけるこの疾患頻度はオランダにおける調査があり有病率(prevalence)は4.4%、発生率(incidence)は12%/年とされている。30歳以下と60歳以上では少なく30〜50歳代の好発年令では女性が男性の2倍以上多い。我が国でもこれと大差ないと思われる。それではテニス人口ではどうであろうか。倶楽部テニスレベルから国際級選手まで異なる技術レベルの選手を対象とした多数の調査があるがテニス肘の頻度は技術の高低にあまり関係なく3050%の選手が経験している(表1)。この頻度は一般人口における頻度とくらべて明らかに高い。

1 テニス人口におけるテニス肘の頻度

著者

選手数

レベル

頻度

Nirschl RP

1975

23

国際級

35

 

 

117

クラブ

52

 

1977

200

クラブ

50

Priest JD

1976

231

クラブ

47

 

1977

84

国際級

45

 

1980

2633

平均的

31

Gruchow HW

1979

500

クラブ

40

Carroll R

1981

74

地方リーグ

35

(3)病態

テニス肘は通称であって上腕骨外上顆炎が一般的病名。ただし病変は骨ではなく軟部組織にあるのでこの名称もmisnomerである。病理学研究では橈側短手根伸筋(ECRB)の起始部(上腕骨外上顆への付着部)(図1)が灰色の瘢痕組織様に腫脹しているのが観察される。組織所見ではtendinosis(線維芽細胞や微細血管の増殖、膠原線維の変性)であり慢性的微小外傷の治癒機転の乱れが原因とされ、tendinitis(貪食細胞、好中球、リンパ球の増殖)とは異なる。画像所見としては我が国のテニス肘患者19人に超音波検査をおこなった研究では、総指伸筋(EDC)、ECRBの上腕骨外上顆への付着部の腫脹が認められ罹病期間が6ヶ月を超えるとその頻度がさらに増している。MRIによるデンマークの調査ではECRB付着部の剥離、肥厚、シグナル変化が正常の対照群にくらべはるかに高頻度にみられている。しかしこの画像変化は6週後に再検すると臨床症状は回復しているのにほとんどが残存しているのでcurrent painとの相関はないようである。                       

                            図1       前腕伸筋群の解剖

(4)原因

テニスプレイヤーに生じるテニス肘障害の原因は何か。英国の地方リーグ選手74人を対象として、原因を選手自身に推察させた調査ではプレイ過多をあげたものがラケットの種類、技術、テニスコート、生活習慣、併合スポーツなどをおさえてもっとも多かった。またイスラエルのアマチュア選手150人を対象としてプレイ時間、年令、テニス開始年令、経験年数、身体計測、ラケットサイズなどとテニス肘発症との関係を多変量解析した研究では1週間単位のプレイ時間が最大の危険因子であった。このようにoveruseが原因である事は一般に認められている(表2)。ラケットのグリップサイズをいろいろ変えてストローク時の前腕筋群の活動をEMGで調べた研究ではグリップの太さによる影響は無視できる程度としているのでこれもテニス肘の原因にはならないと考えられる。

手関節の伸展(背屈)に作用する筋群には腕橈筋(BR)、橈側長手根伸筋(ECRL)、橈側短手根伸筋(ECRB)の3筋があるのに何故ECRBが選択的に障害されるのだろうか。この部分の解剖を屍体で詳しく調べた研究では上腕骨への付着部が頭側からBRECRLECRBの順なのでECRBがすぐ下の上腕小頭に他の2筋によって押し付けられるためとしている。

(5)backhand strokeのバイオメカニクス

前述したようにこの疾患は前腕伸筋群の上腕骨外上顆付着部の障害である。テニスのプレイで前椀の伸筋群を選択的に使用する動作はbackhand strokeだと一般に考えられて来た。上に述べた原因調査研究はいずれも1980年代のものである。当時はほとんどの選手が片手打ちのbackhand strokeであった。近年のテニスでは両手打ちのbackhand strokeが片手打ちに迫るほど流行してきたのでテニス肘障害も頻度が減少したと想像されるがそう結論できるコホート研究は見付からなかった。

大学テニス選手のbackhand strokeを高速度video撮影して片手打ちと両手打ちを比較した研究によると片手打ちでは腰、肩、上腕、前腕、手の5部門がこの順序で動く必要があるが両手打ちではそれほど厳密ではない。片手打ちはフォロースルーが大きく、打点がより前方にあり、加速期が長い(図2)。簡単に言えば片手打ちのほうが難易度が高い。

この2種類のbackhand strokeの前腕筋肉の活動をEMGで調べた研究では、予想に反して、preparationaccelerationfollow-throughのどの時期でもテニス肘の主原因筋であるECRBの活動は両者間で差はなかった。この著者らは片手打ちbackhandではボールを打ち損じたときの衝撃がECRBにより強くかかるのではないかと考察している。

テニス肘障害のある選手とない選手の片手打ちbackhand strokeを同様にEMGで調べた研究ではテニス肘に罹患している選手では橈側手根伸筋群と円回内筋の活動が有意に大きかった。このことはテニス肘に罹患している選手では手関節をあらかじめ固定してミスヒット時の肘にかかる衝撃を予防しているとも解釈できる。



 図2 両手打ちと片手打ちの
     backhand stroke

(6)治療

スポーツ外傷の常として装具、マッサージ・温熱などの理学療法、NSAIDの外用・内服、ステロイド局所注射などの保存療法がおこなわれる。最近の流行としてこの疾患に対するrandomized controlled trial (RCT)がおこなわれステロイド注射の効果について面白い知見が出たので紹介する。2002年3月〜2004年5月、オーストラリアのブリスベンで有症者198人を無作為に理学療法群(30分、8回/6週)、ステロイド局所注射群(1ないし2回)、無処置観察群に分け52週(1年)追跡した。完治ないし著明改善を有効とすると6週まではステロイド注射群が有効率78%で理学療法群65%、無処置観察群27%を凌駕していたが12週では注射群が45%に減少し他の2群がそれぞれ76%、59%と増加して逆転し以後この傾向は52週(68%、94%、90%)まで続いた。これはステロイド注射群では症状再発率が高いためであり、その原因は痛みがすぐに無くなるので安静が守れないためと推測されている。この研究結果はさらにテニス肘は局所の安静だけで1年以内の自然治癒が9割に期待できることを示している。

難治例には手術療法もいろいろ考案されている。私自身は経験がないのでお勧めはしないが文献上もっとも合理的と思われるECRB起始部の変性部分を切除する術式の考案者による成績を紹介すると、1213患者のうち保存療法に抵抗性の82人(男44人の罹病期間21.6ヶ月、女38人の罹病期間51ヶ月)88肘に手術をしexcellent (full return to all activity with no pain) 66肘、good (full return to all activity with occasional mild pain) 9肘、fair (normal activity with no pain, significant pain with heavy activity) 11肘、failure (no relief) 2肘としている。           

(7)私見

私も高等学校時代からテニスを始めて40代半ば頃にテニス肘になった。新設の滋賀医科大学へ赴任して自由に使えるテニスコートが手近にあったので毎日のようにテニスをしたのが今から思えば原因したようだ。一時はラケットを振るのも痛かったが我慢してテニスを続けた結果、1年程で痛みは気にならなくなったが右肘の可動域は健側の70%程に減少し現在に至っている。屈伸時にポキッとsnappingがおきることもあるが気にしないことにしている。テニスには支障ないのでレ線検査もしていない。紺屋の白袴だがテニスできるのもあと10年以内だろうからそれまで耐えてくれればよいと考えている。このような経験から私はテニス肘には楽観的である。

(8)両手打ちbackhand strokeの新しい合併症

両手打ちbackhand strokeの普及によってテニス肘障害は減るかもしれないが、両手打ちbackhand strokeによる新しい障害が報告されるようになった。すなはち両手打ちbackhand stroke選手の非利き手の尺骨骨幹部での疲労骨折である(図3)。ball strikeおよびそれにつづくfollow-through期に非利き手前腕におきる強い回内運動がその原因と考えられている。両手打ちの強打に悩まされている片手打ちbackhand strokerにとっては少し溜飲の下がるニュースである。



図3      両手打ちbackhand選手の非利き手側の尺骨骨幹部疲労骨折


私のテニス「夫婦でストローク」 (2008年度会誌より)

南原征哲
    (箕面市 南原皮膚科)

    

Wilson Advantage Black 4 1/2 。私が初めて手にしたテニスラケットです。昭和54年。28年前の話です。この黒光りするラケットと銀色のお玉を一つもって女房は私の所へ嫁に来ました。ウイルソンアドバンテージ、これは妻の宝物で、石橋のパン屋でアルバイトをして貯めたお金でやっと手に入れたものでした。その宝物を私にくれました。初めてアドバンテージで打った時その抜けるような感触に感動し、テニスにのめり込む事になりました。

新婚旅行は宮崎のフェニックス。長大なゴルフコースの横にクレーのテニスコートがチョコッと2面有り、ほとんど利用者がない。二人だけのテニスコートで5日間テニスをし続けた。といっても私は初心者で女房は上級者。二人でストロークを続けるだけ。しかも私は110 kg 近い肥満体で腰痛持ち、ほとんど走れず動けず。つまり女房はどこに飛んでくるか分からないボールを拾い続け、私のストライクゾーンに打ち続けた。これは大変な作業です。テニスを好きになって欲しい健康になって欲しいという妻の想いが伝わってきました。そしてストロークが初めて100回続いた時は嬉しかった。

さて夢のような新婚テニスも妻の出産育児が始まる事で終わり、私のテニスは自立しなければならなくなりました。それで高槻ローンという民間のクラブに入会しました。しかし初心者でストロークもままならず、ゲームができないので誰も相手にしてくれません。しかたなく壁打ちを毎日続けました。孤独な一人テニスがしばらく続きました。100回200回と壁打ちが出来るようになり、壁打ち仲間も出来、初心者同士でストローク練習出来るようになりました。。時々70歳の荒木さんというおじいさんが相手をして下さることもありました。(荒木さんは後日池田市民大会にも出場して下さいました。)体重は20 kg 減り90kgになっていました。

その頃、高槻ローンでは東原先生がメンバーで、リーダーグループの一員でした。先生のプレーを見て「あんなにかっこよくテニスが出来れば」と憧れていました。ある日、東原先生が声をかけて下さいました。江坂のインドアで何人かの医師のグループがテニスをしているそれに加わらないか。グループ名は木曜会といって江本、原、菱谷、谷口、井上、坂井田、和泉等々素晴らしいテニスプレーヤーが集まっていました。グループのメンバーは快く受け入れて下さり、新しいテニスライフが始まりました。当時は弱々しいフラットサーブとストレートドライブのフォアハンドしかできず、バックハンドストローク、ボレー、スマッシュはほとんど出来ない状態でした。木曜日午後8時から10時まで2時間4ゲームのダブルスでしたがその日の夜は背中や肩がうずきました。何とかついてゆこうと必死に練習しました。テニスを始めて5年目頃に開業し住居が箕面に変わりましたので、高槻ローンから阿武山テニスクラブに変わりました。そこには国体の選手や高槻茨木吹田の名選手が集まっていました。
ヘタでも何でもやる気のある人はとことんテニスが出来るという環境でヘタだからと無視される事もなく私には有り難かった。クラブに入会してすぐ無謀にもそのNo1選手にシングルス5セットマッチを挑みました。30分で3セットとられました。サーブもレシーブも全て1発でエースをとられます。年2回10年間No1選手にシングルスでチャレンジしました。自分のレベルを知るためです。最低点から最高峰を眺めるわけですから、なんとも大きく見えました。阿武山テニスクラブでは日曜日には10ゲームすることもありました。テニスクラブでのゲーム数が増えるに従いテニスで息が上がるようではいけないと、箕面の滝道往復5kmを毎朝ジョギングし、体重を15 減量し75kgになりました。体重はピークから35 kg 減った事になります。強くなろうと千回の素振りに加え、腕立て伏せや腹筋、スクワットも毎日やりました。テニス量を増やすため夜のテニススクールにも通い始め一週間に6回テニスをしました。仕事以外全てをテニスに費やしました。
その頃阿武山のNo1選手に一生に一度テニスで勝ってみたいと言いますと、あなたには一生に一度も負けないといわれました。なぜなら彼は一週間に8度テニスをしているからだと言いました。私のテニスがある程度充実して、箕面の市民大会でシード選手になった頃、一度だけ彼を追いつめた事があります。香里オープンの準決勝5-3リードで私のパートナー加納さんのサーブ。15-15でサーブした時ファーストがフォールト。セカンドサーブが入ったと思ったら、彼はフォールトと叫びました。フットフォールトだそうで、その判定でもめ、試合が一時中断。ゲームの流れが変わってしまいました。そしてその試合は5-6で負けました。その後、彼に勝つチャンスは二度とありませんでした。当時は年間約20の大会に参加しました。オープンの試合は阿武山テニスクラブの加納さんが、箕面市民大会は箕面在住の大庭さんが。(大庭・南原で箕面市の代表として北大阪大会にも出場出来ました。)医師会の試合は江本会長や坂井田先生、菱谷先生、兵庫の横山先生、安藤先生がパートナーになって下さいました。

その頃阿武山のNo1選手に一生に一度テニスで勝ってみたいと言いますと、あなたには一生に一度も負けないといわれました。なぜなら彼は一週間に8度テニスをしているからだと言いました。私のテニスがある程度充実して、箕面の市民大会でシード選手になった頃、一度だけ彼を追いつめた事があります。香里オープンの準決勝5-3リードで私のパートナー加納さんのサーブ。15-15でサーブした時ファーストがフォールト。セカンドサーブが入ったと思ったら、彼はフォールトと叫びました。フットフォールトだそうで、その判定でもめ、試合が一時中断。ゲームの流れが変わってしまいました。そしてその試合は5-6で負けました。その後、彼に勝つチャンスは二度とありませんでした。当時は年間約20の大会に参加しました。オープンの試合は阿武山テニスクラブの加納さんが、箕面市民大会は箕面在住の大庭さんが。(大庭・南原で箕面市の代表として北大阪大会にも出場出来ました。)医師会の試合は江本会長や坂井田先生、菱谷先生、兵庫の横山先生、安藤先生がパートナーになって下さいました。

そして優勝経験のない私に初めて優勝の美酒を飲ませてくれたのは原文雄先生でした。初優勝はサールオープンでした。その後大阪府医師テニス大会、近畿医師テニスで原・南原で優勝しました。病院対抗団体戦でも井上、横山、榊原、菱谷、田中、南原のメンバーで優勝しました。平成6年全日本医師テニス大会大阪での女房とミックスダブルス優勝は夢のような出来事でした。私のテニスライフは充実していました。


       平成19年10月1日

平成7年阪神大震災で阿武山テニスコートがなくなり、テニス拠点を吹田のMBSロイヤルテニスクラブに移しました。しかし以前のようなテニスに対する闘志が湧きません。ここも平成14年に閉鎖になりました。今は週1回箕面の関西電力コートのテニススクールに通っています。医師夫婦4組8人が生徒でコーチは茶氏と美人のお嬢さんの二人です。一人のコーチが球出しをしもう一人がスウィングチェックをしてくれるという構造でもう足かけ4年続いています。初めは体力が落ちない程度で良いわぐらいの気持ちで参加していたのです。ところが、このスクールがまた良くできていまして、気がつけば見事にテニススイングが変わってしまいました。フォア、バック、ボレー、サーブ、スマッシュ。誰が見ても分かるほどの進歩です。私自信も進歩を強く感じていて、何かしらとても気分の良い毎日です。私のテニスは今が最も見栄えがすると思います。

さて30年近くテニスをして、今私の友人と言える人たちのほとんどがテニスの仲間です。そして私の最大の遊び仲間は女房です。今は夫婦でストローク、ボレーストローク、スマッシュストローク、ボレーボレー何でも気分良く続けることが出来るようになりました。私達の新婚時代の夢が一つかなったようです。今使っているラケットは白のウイルソン。「夫婦でストロ-ク」とても幸せな時間です。


モンゴル紀行 (2008年度会誌より)
 江本 敬 (豊中市 江本医院)

0日目 モンゴロイド

人類は大まかに言えば、以下の3つの人種に分類されます。

1.ネグロイド=類黒色人種群

2.モンゴロイド=類モンゴル人種群、これは黄色人種

3.コーカソイド=類白色人種群

我々日本人はモンゴロイドに属しますが、ひょっとするとその名の示すとおりモンゴルが我々のふるさとかもしれませんね。なぜなら、映像でモンゴルのたおやかな大草原をみるにつけても、なぜかすごく懐かしい想いがするのは、DNAのどこかにある大昔の記憶のせいではないでしょうか。

また我々の使っている日本語はウラル・アルタイ語族の言語として分類されておりますが、このウラル・アルタイ地方というのがまた、まことに不思議なところでありまして、多くの民族がこのウラル・アルタイ地方をはじめとする中央アジアから、まるで湧くように出てきては東へ、西へ、南へとひろがっていった形跡があります。ゲルマン民族、ロシア人を含むスラブ系民族、トルコ人そして無論モンゴル人もそうですし、ツングース系や朝鮮半島の住人、そして2万年ほど前の最後の氷河期にまだ陸続きだったカラフトから北海道に入ってきた我々日本人の祖先である縄文人もそうです。弥生人もその起源は中央アジアで、特にバイカル湖の東側に住むブリアート族などとの共通点が指摘されております。すなわち日本人の起源は、東南アジア諸民族との混血もあって一筋縄ではいかないのですが、中央アジア、特にモンゴル平原付近にもあることは間違いありません。

日本人の生まれ故郷を一度訪れてみたい、できたらかの勇猛果敢で誇り高い遊牧騎馬民族のように、モンゴルの大草原を馬で疾走してみたいというのが、私のここ10年来の夢でした。

[典型的なモンゴロイド2名 向かって左は現地ガイドのエルカ氏、右が筆者]

府医テニス協会の方なら、ご夫妻で熱心にテニスをしておられる高槻の川口憲明先生ご夫妻をご存知だと思います。数年前に川口先生に乗馬をやらないか、と誘われて以来私たちも夫婦で始めましたが、いつまでたっても劣等生でなかなか上達しません。そうこうしているうちになんとモンゴル乗馬ツアーの話が持ち上がりまして、ひょっとするとこれは永年の夢が実現するかもしれない。しかしこれはもう必死の覚悟で馬を練習しないとみんなに迷惑をかけることになるというので、半年間というもの脇目もふらずテニスも釣りもそっちのけで、和泉市の乗馬クラブに通い詰めました。川口先生がコーチに口添えしてくれ、予定より早く駆け足にはいることができて感謝致しました。しかし今から考えると、初心者マーク付きでしかも枯葉マークも付きそうな我々が、よくもまあ無事に帰ってくることが出来たと、今更ながらに胸をなでおろしている次第です。ひとつ間違えるとモンゴルで疾走のはずが「二人して失踪」になってもおかしくないところでした。

第1日目(6月23日、日曜)落目の・・いや落日のウランバートル


[ウランバートルの落日]

モンゴル航空の飛行機で成田から約4時間、ウランバートル郊外の空港につきました。モンゴルは10年ちょっと前まで共産圏に属する国だったので、今でもそのカラーが色濃く残っております。フライトアテンダントや空港職員は、笑うと損というような感じで全く愛想も何も無い。飛行機の座席や読書灯は、これまた直すのが損のように壊れたままで、文句を言ってもまるで取りあってくれない。ホテルやレストランなどの民間業者も同じで、笑顔のかけらもないし、ホテルの調度品もこわれたままです。ウランバートルで一番高級という触れ込みのチンギスハーンホテルに泊まりましたが、入り口ドアのノブは壊れているし、家内はシャワーを浴びようと浴室にはいったところ、シャワーが出ず、下のカランからしかお湯が出ない。仕方なく窮屈な格好でしゃがみこんでカランの下に頭やからだを突っ込んで、やっとなんとか洗ったらしい。まぁ、あまり想像したくない姿ではありますが。

ウランバートルには高いビルがなく、なにか町全体にうらぶれた感じが漂っておりました。しかし我々を出迎えてくれた夕焼けは超Aクラスの素晴らしいもので、夕日に空と町全体が染まり、また緯度が高いのでその分太陽がゆっくりと沈むため、たっぷりとそのスペクタクルを楽しむことができたのです。

第2日(6月24日、月曜) 幻の湖フブスグル

翌朝からまる1日かけて移動です。フブスグル湖とはロシア国境にほど近い湖で、バイカル湖のすぐ南東に位置し、セレンゲ川でお互いにつながっております。バイカル湖に比べるとはるかに小さい湖ですが、それでも琵琶湖の8倍以上あって、やはり日本とはスケールが違いますね。まずウランバートルからムルンという小さなローカル空港へ飛びましたが、この国内線のパイロットが日本人で岡山の方だったのにはちょっと驚きました。

さてそのローカル空港から目的地のフブスグル湖畔のキャンプまで、直線距離で200キロの道のりを車に揺られて6時間でしたが、この揺れかたが半端でないのです。大草原の中のいわば車の踏み分け道を通っていくのですが、乗馬用のヘルメットをかぶってどこかにしがみついていないと、とても五体無事にはたどりつけないというひどさでした。しかしです、日本から36時間かけてやっとたどりついたその湖は、色々と不愉快な思いもし、また窮屈な姿勢の風呂場や車中を余儀なくされたことなどの、いっさいを忘れてしまうほどの素晴らしいところでした。ここを訪れた片山右京が、感動のあまり涙が止まらなくなったというのもよく判ります。


[黄昏のフブスブルグ湖と白い月]

北緯52度は北海道のはるか北、カラフト北部に相当するほど緯度が高くしかも高度も2000mに近いため、夏の初めでしたがまだまだ冷涼でしたし、またとんでもなく空気が澄み切っておりました。湖面の向こうはるか30~100kmほど先の対岸までがくっきりと見渡せます。ここの夕焼けから宵闇への約1時間というもの、茜色から濃紺へゆっくりと変化するグラデュエーションに満ちた蒼穹は、ウランバートルで見た夕焼けの比ではありませんでした。これまで一度も見たこともないようなとんでもない色の空や雲、また湖の雄大な風景も、見る間に刻々と変わっていくのです。その神秘的なまでの光景にわれを忘れて、つのる寒さと感動に震えながら呆然と湖畔に立ち尽くしておりました。


第3~4日(6月25~26日、火~水曜)右肩打撲傷、顔面挫創及び擦過傷


[朝もやの中で。一見おとなしそうではありますが]

やっと念願のモンゴルでの乗馬がかなう朝になりました。この辺はモンゴルの大草原ではなく、シベリアツンドラの南に広がるいわゆるタイガ地域で、針葉樹林と草原が入り混じり遊牧民達はトナカイも飼っております。

まずは午前中のひと鞍目、馬が15,6頭ほど湖畔の柵に繋がれています。普通の馬の体高は背中の部分ではかりますが1,6mほどあります。モンゴルの馬はすべて小型で、大きめの馬でも体高は1,2mもないくらいです。かなり小型の馬ですが気性は荒くまた非常にパワフルで、この馬たちがいたからこそジンギスカンの時代にあの大帝国を築くことができた、と言っても過言ではありません。

この地方の馬も例外ではなく、小型で気が荒い上にまたあまり調教もされておらず、こちらの言うことを少しも聞いてくれません。普通手綱を引くと馬は止まるものですが、ここらの馬は抵抗して逆に首を前に突き出して加速しようとする。

通訳を通して案内の遊牧民に尋ねました。どうやったら止まるのか?と。答えは
「山にさしかかって登りになったら、多分そのうち止まるだろう」
と至ってのんびりしています。

「山までどのくらい?」
「あそこに見えているあの山まで30km」・・それはのんびりしすぎです。
しかしみんな何とか乗りこなして、湖畔の草原や針葉樹林の中を歩いたり駈足で走ったりしておりました。

もうすぐ昼食の休憩地という場所まで来ましたが、馬もよく知っていて急に加速し出します。彼らも早く休みたいのですね。転瞬、一頭の馬が地面の穴に前足を取られて大きくつまずきました。乗っていた男性は5~6メートルも前方に跳ね飛ばされて、顔面と左肩から着地してしまったのです。顔は擦り傷だらけで、唇と左の頬が深く切れており、ここは外科医江本敬の出番です。すぐさまキャンプまで取って返して外科処置及び手術道具一式を持ち、また急ぎ現場に戻ってきました。消毒ののち局所麻酔下に創傷処理施行、全部で7針ほど細かく縫合し、擦過傷部位は洗浄後に創傷被覆材デュオアクティブETで覆って抗生物質を投与しました。
「処置代はたかがしれてますが、モンゴルまでの往診代が高いですよ」
と、冗談とも本気ともわからないように言っておいて、処置終了です。


[湖畔トレック 気温は18℃ほどで爽快この上なし]

モンゴルでは人口密度が極端に低い割には情報伝達が早く、日本から医者がきているぞ、といううわさがすぐにひろまったのでしょう。その日の夕方にはトラックに乗った親子が遠くからやってきて、昨日からこの娘が発熱と左耳からの浸出液でつらそうなので診て欲しいと、懸命のすがりつくような視線で頼ってこられました。ここは内科医川口憲明先生の出番です。通訳越しの問診と診察のあと、なんとジスロマックを処方しておられました。完治間違いなしでしょう。無論ご好意で無料でしたので、ご両親ははじけるように喜んでおられました。見ると親子とも正装しており、我々が食事をしている間2時間ほどもじっと不安を抱えたままでトラックの中で待っていたようです。その正装も必死の面持ちも、わが娘を想う親なればこそ、と私はその時少し目頭が熱くなりました。あと何日か私たちがここに滞在するというと、門前市を為すほどの患者さんでごった返したことでしょう。


[裸馬を乗り回してトレックに付いてきた現地の少年。
右の手足が少し不自由
]

私は子供達を連れて旅行に行くようになってからは、どこへ行く時も様々な薬はむろん緊急時の外科セットも必ず持参しておりました。幸いなことにこれまでの30年間というものは一度も使ったことはなかったのですが、今回は最悪の状況でしっかりと役に立ちました。本来なら通訳と責任者が丸1日がかりで車と飛行機を乗り継いで、はるかウランバートルまで治療のために怪我人を連れて帰らねばならないところです。私たちは危うく通訳やガイドもなしでほったらかしにされそうな状況だったので、ツアーの皆さんも一様にホッと胸を撫で下ろしておおいに喜んでくれました。また処置後の傷の経過も大変順調にいっておりましたので、数日後の朝食時には

「これは私の好意と責任でしたことですので、決してお金や品物であがなおうとしないで下さい。私の好意について値踏みしたりしないように。あなたからの“おおきに”のひとこと、それだけで結構です」

と、かっこ良く決めることもできました。怪我をなさった方は私と同じ歳でしたが、幸いなことに驚異的な治癒力の持ち主で、二日目からはまたグビグビと強いアルコールを飲んではクダを巻きながら、どんどんと治っていってしまいました。

第5日目(6月27日、木曜) 星の家

一度ウランバートルへ戻って、今度は郊外のキャンプ「星の家」に向かいます。

離れがたいフブスグル湖畔から車でまたムルン空港までの厳しいドライブです。今度はあらかじめ覚悟ができておりますし多少は要領も判っておりましたので、少し余裕を持って車内で揺られておりました。時々羊やヤクの群れが道を横切ります。その度にスピードダウンしたり停車したりという、NHKのシルクロードでおなじみの光景が実際に目の前でおこりますと、運転手は舌打ちをしますが、私たちにはとても珍しいことなので、なにか嬉しくなって写真を撮りまくりました。

うねる大草原の中の一本道をたどりますが、一番高い峠のところに来ますと必ず「オボ」という石を積んだケルンのような塔があります。羊や馬の頭蓋骨も積まれており、また赤や黄色の布がなびいていて、いかにもマニ教などの土着宗教を感じさせます。峠を越えるときに遊牧民達が旅の安全祈願や家畜の鎮魂のために石を積むのです。このオボを時計回りに3回まわって1回ごとにお祈りを捧げるということなので、言われたとおりの所作で我々も旅の安全祈願をしました。


[道路を横切る羊の群れ 信号機は、ない]

オボが立っているところは大概眺望も良いので、峠でオボを見かけるたびにトイレ休憩も兼ねてしばらく停車をします。トイレ休憩ったって、日本と違ってパーキングエリアや道の駅があるわけではない。今回の旅行で女性の方たちが一番心配していたのはトイレです。
「トイレはどこでするんですか?」
「360°この大自然が全てトイレです、どこででもどうぞ」
むこう向きで肩からコートでも被れば分かりませんから、と言われても最初は皆さん嫌がってもぞもぞと、なかなか行けずに我慢していたようですが、うまくしたもので丘陵地帯ですので少し歩けば坂の陰があったりするのですね。そこで隠れてしちゃうわけですが、途中からはあまり抵抗がなくなったようです。それはそうでしょう、気持ちはよく判ります。峠の高みに止まるわけですから、はるか彼方までゆったりと波打ちながら続く悠久の大草原と、そしてあくまで白い雲を浮かべたどこまでも蒼い大空を同時に見渡します。その大草原の真ん中でそよ風に吹かれ、またさんさんと陽光を浴びながら小用を足す。こんな気持ちのいい排尿がまたとあるでしょうか。日本では女性のタチションはちょっと難しいのでありまして、いえ、タチションはおかしいですね、オクションですか、屋外でのションですから。皆様このモンゴル旅行で初体験だったようですが、あの爽快感はもうたまらんということで、女性全員このオクションが病みつきになってしまったようです。                      
ムルンからウランバートルのチンギスハーン空港へと舞い戻ります。飛行機では窓際に陣取って、眼下を過ぎていく草原の景色を飽くことなく見続けておりました。ところどころに、本当に散在性に3つないし7つぐらいまでのゲルの集まりが見えます。むろん季節ごとに移動していく遊牧民たちですが、郵便物はどうなるのか?と現地人ガイドに尋ねると、時間はかかるがちゃんと着くとのことです。あんなに離れていても、しかも広大な草原のどこかに埋もれていても、時期によって誰がどのへんにいるのかは、およその見当がつくのだそうです。逆にモンゴル人が日本に来たら、こんなにたくさん人間が密集していてよくまあ郵便物が届くものだと、驚くかもしれません。

チンギスハーン空港から車で町を離れ、約2時間南西へと大草原を走って、ウランバートルでのキャンプ「星の家」を目指します。日本の「風の旅行社」と言う会社の経営です。ウランバートルから20km程は舗装された道路でしたが、車のゆれ具合について言えばなんのことはない踏み分け道と大差ありません。舗装はかたちだけで手入れがされていないため、穴だらけのがたがた道でしかも土の道と違って硬いアスファルト、かえってたちが悪いというものです。どんな旅行でも「車中うたた寝」をアテにして行動予定を組み立てるものですが、モンゴルでは不可と知りました。


[ 胡  月 
日もたっぷりと暮れなずんだ頃に、やっと星の家に到着しました。見上げるとさすがは星の家とよばれるだけのことはある、全天素晴らしい星空です。満月が皓皓と南中して夜空や大地を照らしているにもかかわらず、驚くような数の星が見えます。しかも地平線ぎりぎりまでたくさんの星で満たされているのですね。大阪では考えられません。これがもし新月だったら、いったいどんな夜空になるというのか。地球上で最も星が美しいのは、マウナケアなどを別にすればアフリカとモンゴルということですので、次回は既に来年6月末から7月はじめにかけての新月の数日間で、星空をも楽しむ旅行日程を組み立てております。

モンゴルでの宿泊はすべてゲルで起居します。中国では包=パオと呼びあるいは古く漢の時代頃は穹廬といいました。このゲルとは柳の木で外壁と天井の枠を組み立てて、その外側を分厚いフェルトで覆った、遊牧民の移動式のテントというか家屋です。テントというには大規模で、普通サイズのゲルで中では3~4人のベッドが置けるし台所も取れます。この中での生活は非常に快適です。寒ければ薪ストーブを焚けば瞬時に暖かくなるし、暑い日には、壁になっているフェルトの裾をまくって下から風を通しておいて床に寝るというとまことに気持ちよく、大草原を渡る風を受けながら昼寝をすることができます。

そのむかし狩猟民達は山や草原などで獲物を探して狩をすることで生きておりましたが、いつも獲物が保障されているわけではありません。そこで獲物の群れについて行って自分達人間の方が移

動するという生活様式、これが遊牧の始まりです。いわば動く冷蔵庫についていく、これなら絶対に食料に不自由しないわけです。紀元前6世紀頃に、素晴らしい金細工で有名なスキタイ人達が始めたものだといわれております。食は保障されるがそのかわり定住ができない、野菜が摂れないなどの問題もありますが、そこはゲルを工夫改良したり、またヨーグルトや馬乳酒を飲むことで、羊や馬が食んだ草からのビタミンを摂取するなどの様々な工夫を重ねて、数千年にわたって確たる一大文明にと仕上げてきました。しかし近年では都会での便利な生活にあこがれて草原を去る人が多いらしく、誇り高き遊牧の民が、薄汚れた都市の貧民になりさがっている姿を見るのは、非常に悲しいことです。


[左のコンビニ強盗風は家内  猛烈な紫外線なのです]

第6日目(6月28日、木曜) 薫る草原


[キャンプ星の家での出発準備風景 快晴の朝です]

フブスグル湖付近の森林が多いタイガ気候とはうってかわって、ここウランバートル郊外はイメージ通りのモンゴル、すなわち見渡す限り果てしなくたおやかにうねり続ける大草原です。しかもこの草原は素晴らしく薫るのですね。草の中にハーブの系統の草も混じっており、草原中あまねくよい薫りがするのですが、それが特に多い場所に来るといっそう薫りが強くなり、うっとりとなってしまいます。まさに風薫る大草原です。

今日と明日はその薫る草原での、こころいくまでの騎馬トレックです。空は雲ひとつなく抜けるように晴れ上がり、薫風が爽快です。私たちがスポーツや音楽その他の趣味、そして旅に求めるものは「非日常」であります。普段の日常から抜け出して非日常を味わい、再び日常に帰る。そうすることで、どちらをも際立たせることが可能です。慣れ、馴れ、狎れてなれなれしくマンネリ化した日常を、非日常から戻ることでリセットしてまた新鮮な味わいを伴う日常に変えることができるのです。ま、簡単に「リフレッシュ」と言ってしまえばそれまでのことですがね。

モンゴルでの乗馬トレックは、これまで味わった色々な非日常のなかでもとびきりの、究極のものでした。ヨーロッパやアメリカに比べると近いし安いし楽しいし、皆様もぜひチャレンジして下さい。なに、乗馬なんてわけはありません。この日ひとり旅のうら若き女性が我々のトレックに従ってきておりましたが、彼女はモンゴルへ来て初めて馬に乗ったということです。乗馬3日目だったそうですが、もう駈け足さえも交えて我々一行に遅れずにちゃんとついて来ておりました。ガイドが二人両側から支えるようにリードしており、また馬もおとなしそうな馬でしたので、見ていてまったく不安感もありません。人件費が安いのでガイドを2~3人つけてもしれているのです。さすがに彼女、お尻が痛いとは言っておりましたが、損傷がどの程度なのかはチェックしそこねましたので判りません。ですからモンゴルで騎乗するために、大枚払って日本の乗馬クラブであらかじめ練習していく必要はさらさらないということです。いわゆる馬術には細かい拘束がありますが、乗馬トレックではうるさいことは何もありません。怪我をせずにマイペース乗って楽しめばそれでいいのです。        

第7日目(6月29日、金曜) オボ

「3日間雨」の天気予報にもかかわらずこの日も好天が続き、この旅行中結局一度も悪天候はなく、私と川口先生は「天下御免の晴れ男」の異名を欲しいままにしておりました。昨日はキャンプに向かって帰り始めた頃に遠雷が聞こえておりましたが、馬を繋いでゲルにはいった途端にバラバラーッという大きな音がする。ドアを開けて外をみると大きなヒョウが降っておりました。すごくラッキーなタイミングで晴れ男達の面目躍如であります。

そして快晴の今朝は
「今日は北に見えているあの丘まで日帰りで行きます」
「ええ? あんなとこ~? 」
丘はすぐそこに見えます。しかし駈け足を交えながら行ってもたっぷり2時間はかかりました。それだけ景色が雄大なのですね。

馬は非常に臆病な動物です。牙や爪などの武器がないので、捕食者が来たらひたすら走って逃げるしかない。常に周囲を警戒し、異状を感じたらすぐさま全力で逃げる。そうやって生き延びてきた動物です。ですから例えば馬場の横でパラソルをパッと開いただけで馬が仰天して走り出すといったこともあり、危険なので馬の近くでは用心深く行動しなければなりません。私の馬も例に漏れず充分臆病でした。ポリ袋が風で飛んできただけでパニックになる、走っている目の前の地面を、飛ぶ鳥の陰がすっと横切っただけでキャヒ~ンといなないて道をそれ、あさっての方へ全力疾走する。そのつど私は落馬しそうになりましたが、なんとか危うく持ちこたえました。


[柔らかな稜線にも心が癒されます]

やっとめざす峠の頂上にたどり着いてその向こうを眺めると、これまたどこまでも続く大草原です。まったくこの景色にはきりがありません。ここで昼食をとりながら休憩を入れました。途中馬の水のみ馬でも休憩しましたが、見ていると3頭の親子連れが馬達だけでトコトコとやってきて、泉の水を飲んで帰って行きました。ただそれだけのことですが、つくづくモンゴルの羊や牛馬は幸せだなと思います。大草原を走り回って食べたい時に食べ、飲みたい時に飲む。自由極まりない。日本の牧場で飼われている乳牛をご存知ですか? 固定された細い首かせをはめられたままで牛舎の一ヶ所で身動きもままならないのですが、その首かせは生涯ただの一度もはずされずに、ひたすら搾乳されるだけの一生なのです。草原を走り回るなど夢のまた夢。あの乳牛の可哀想な姿を思い出して彼我のあまりの違いに、人ごとながら・・ではない牛馬ごとながら、思わず涙ぐんでしまいました。


[私設 オボ ]

さて、私は峠の頂きで小さなオボを造営しました。造営はおおげさですか、高さ15センチほどですのでね。そして時計回りに1周ごとに祈ります。      
3周目には特に丁寧に祈りを捧げて旅の安全を祈願していたのですが、皆は私を指差して口々に
「日頃よっぽど悪いことをしてるから、ああやって懺悔をせないかんのやな」
などと悪口雑言をたれております。まったくその通りなので、私は無視をするしかありませんでした。ですが、あとでこの安全祈願がたっぷりと効いてくるのです。

おなかも出来たし充分休憩もとったので、眼下はるか遠くに白く、ゴマ粒よりも小さく見えているキャンプのゲルまで帰ります。馬は相変わらずパワフルで、全員が調子よく駈け足をしておりました。その時は一瞬なにが起こったのか判りませんでしたが、数頭の馬が何かに驚いて急に大慌てで疾駆を始めました。直後にどさっと鈍い音が2回聞こえました。二人が落馬したようです。私と家内の馬もパニックになっており、いくら手綱を引いても止まる気配がない上に右足のアブミも外れてしまいました。もうあかんか?と思いながらも手綱を締め続けておりますと、やっと速歩から並歩になって停止してくれました。家内も無事に乗りこなしておりました。どうです、オボ祈願のお蔭でしょう、と心中快哉を叫んでおりました。幸いなことに今回の落馬はたいした怪我もなく、打撲だけで済んだようでした。原因は遊牧民の牧童がいい加減にくくりつけていたカバンが鞍から落ちて、それに馬が反応して驚いたのだと、後ほどわかりました。残り小一時間ほどの今回最後の騎乗は、思わぬ疲れが溜まっていることでもあり、兼好法師徒然草の「木登りの名人」を思い出して慎重が上にも慎重に進めました。そうです、梢の上では誰でも用心する、あと少しになって気を緩めないように、との教訓ですね。

今回落馬した怪我人は、皆さん千鞍以上乗っているというベテランばかり。百鞍にも満たない我々若葉マークはヒットエアーにも守られて無事でした。「ヒットエアー」は日本のムゲンという会社が作っている優れもののベストです。体が馬やバイクから離れると、内蔵する小さな炭酸ガスボンベが開口して瞬時にベストにガスを送り込み、まるで亀の甲羅のように硬くなって脊椎を守ります。普段は折り込んである部分もガスが上下に広げるので、頚椎も仙骨も完璧にガードしてくれます。イギリスだかフランスだかの白バイライダーは、全車これを着用しているそうで、我々もこれを離せません。またこれを着けることで騎乗が大胆になり、かえって良い効果を生んでいるようです。ボンベを飛行機に積むについては大変な苦労をしましたが、その話は割愛いたします。

さてこの騎乗で星の家ともこれでお別れです。足元の明るいうちにウランバートルへ戻って夕食をとったあとは、また例のチンギスハーンホテルです。チェックインして部屋にはいったら風呂場に直行、まず一番にシャワーが出ることを確認しましたが、今度は大丈夫でした。しかし鍵はやっぱり壊れ気味で、スタッフがやると簡単に開きますが、我々が開けようとすると誰がやってもどうやっても開きません。しかし安全といえば安全なのかな、翌朝まで泥くんや強盗さんはお見えになりませんでした。

[残照@星の家 紅蓮の空と黄金に縁どりされた雲]

第8日(6月30日、土曜日) 生還

翌早朝にウランバートルチンギスハン空港から成田へ飛び、今回の私にとってのですが一大冒険旅行から無事に生きて帰ってくることができました。お世話になった方々に深謝する次第です。

特記事項1. Agnus Dei(神の子羊)

モンゴルでは食事が恐ろしくまずいので日本食を持参するほうがよい、という情報がはいっておりました。しかしあとで聞くとこれはモンゴルといっても内モンゴル自治区へ行った方のお話しで、内モンゴルといえば食品問題で今いろいろと取り沙汰されている中国ですね。これは怖いので食料持参も必要ですが、モンゴルではその必要はまったくありません。食事については覚悟もし、かなり構えてもいたのが拍子抜けするくらいでして、全く問題ありませんでした。例えばある日の夕食は、牛肉入りのあまり辛くないカレーにライスやパン、レンズマメ入りのヨーグルトに野菜サラダといった風に、おしゃれで充分おいしい食事が続きました。湖で取れるニジマス料理も出たりしてよかったのですが、難を言えばビールが生ぬるかったことですね。冷蔵庫で冷やすというような贅沢な行為はモンゴル語の辞書にはないようです。


[哀れな神の子羊よ・・・エイメン・・]

いわば逆にあまりモンゴルらしくない料理が続くので、ここはちょっと趣向を変えて強烈に脂っこくて癖のあるいかにもモンゴル料理らしいのを、という全員一致のリクエストで羊を一頭ほふって貰うことにしました。通訳兼ガイドのエルカ君は遊牧民の出身で、なんどか羊をほふったことがあるとのことでした。キルギス人達は頚動脈を切るので流血の大惨事になるが、モンゴルの遊牧民は血を流さずにほふるのだ、と自慢げに聞かされました。彼の話や実際に殺すところを見学して、おおよその手順は以下の通りであることがわかりました。

エルカ君の話では、右手の中指で羊の大動脈の起始部をポンと外して、出血死させるようでした。手術記録は以下の通りです。羊を仰臥位にして、自分の右脚で羊の後ろ足2本を押さえ、左手で羊の前足2本をしっかりと握って引っ張ることでcounter-traction をかけます。そして右手にもったメスすなわち刃渡り約12センチのナイフで、10センチの上腹部正中切開を加えます。全身麻酔は無論局所麻酔もありません。

Linea alba(白線)と腹膜を切開して開腹をします。その切開部から右手を入れて腹腔内を上方へ向かい、左の横隔膜を指で鈍的に穿孔して左胸腔内へと右手を入れます。この時できるだけ上で、すなわち前胸壁に近い部分で横隔膜に穴をあけることが大切です。そうしないと腹腔内に多量の血液が流れ込んでくるでしょう。

胸腔内に入れた右手で心臓とそれに続く大動脈を確認し、起始部近くで胸膜を中指で鈍的に剥離して縦隔にいれ、その中指を大動脈にひっかけそしてはじき切ります。この現地人はブラックジャック並の腕で大変手際よく、ここまで約30秒とかかっていません。また羊は皮膚切開の時に少しうごめいただけで、あとは静かにしています。ただ横隔膜を破るときにちょっと痛がっただけです。腹膜や胸膜には知覚神経がありますが、単なる腹腔や胸腔内の操作ではあまり痛みを感じないのですね。大動脈をちぎるとそこからの出血は左の胸腔内にだけ溜まるので、出血はありません。15秒ほどで羊の目の光がスーッとなくなり、平成19年6月26日午前10時23分、死亡が確認されました。あとは一気呵成に皮をはぎ腑分けをして行きますが、それも見事な早業でした。

さてその可哀想でならない羊くんの肉の処遇です。熱した石で蒸し焼きにしますが、これがもう実に驚くほどの美味ではありましたねぇ。湖に突き出した天橋立のように細長い砂州の先端で、3方を湖に囲まれたまばらな松林の中での昼食でした。湖面を渡ってきて吹き抜けていく風が実に心地よい。さて調理には、50リッターは入りそうなアルマイトの容器を使います。その形はというとヤクルトの入れ物がありますね、小さなプラボトル。あれを巨大にしたような容器の中に羊の骨付き肉を敷いて岩塩をふり、その上から焚き火で焼けた石を入れたらまたその上に肉を置いて塩を振り、また焼け石を置く。この繰り返しで、肉に火を通すとともに味を付けていきました。・・らしい。ちょうどこの頃私は手術道具を取りにキャンプへ往復して、すぐその後処置にかかりましたので詳細は不明です。しかし私が戻って怪我人の処置をしている間、仲間の皆さんには食べずにじっと待っていてくれる・・ような方は・・ひとりもいませんでした。それはそうでしょう、こんな美味しいものは非情になって熱いうちに、どんどんハグハグと食べてしまわないといけません。にじみ出た肉汁がまた絶妙のうまさで舌に迫ってきて、騎馬に疲れた心身を癒してくれる。マトン特有のあの臭みはまったくありません。むしろ肉そのものに快い匂いがありまして、羊くんが香草を食べているために、その肉もまたいい匂いがするのでしょう。10数名がお昼と夜も食べてまだ余るほどの肉の量でした。ほかの内臓はむろん、血も腸詰につくりボイルして食べるそうですが、これらは責任者の意向で現地の方たちに寄付しました。ムム残念。調理の費用やお昼の場所代も全て含めて羊一頭、70米ドルでしたが、それでも「ちょっとぉ、高いぞ」ということでした。そうそう、モンゴルではアメリカドルが堂々とまかり通るというより、一番喜ばれるようです。

特記事項2.オルティンドウ、ホーミー

フブスグルキャンプや星の家のレストランでは、音楽団と舞姫によるショウが毎晩のようにありました。マイヒメと読むよりも中国風にブキと読みたい雰囲気ですが、メロディーやリズムそして踊りには昔から「胡」と言われた西域民族独特の調子が漂っておりました。

楽団の演奏者や歌手や舞姫は、ウランバートルの音楽大学や芸術大学を卒業しており腕はたいしたものなのですが、なかなか働き口がないようで、こんないわばどさ回りで糊口をしのいでいるのですね。ショータイム以外の時間はキャンプのスタッフとして一日中働いています。フブスブルグの若くて一番美人の舞姫は、私たちのゲルの受け持ちで、毎朝6時にストーブをつけに来てくれました。

オルティンドウとは長歌という意味ですが、まあ普通のモンゴルの歌と考えて下さい。ほとんど中国風といってよい歌です。ホーミーはご存知かもしれませんが、喉や舌を唸らせてひとりで二つの声を同時に出す歌い方ですね。倍音のような高音の響きの声と、低い声との二つで歌いますが、単なる倍音でない証拠に高い声は一定の音程で、下の声でメロディーを出します。浪花節や香具師の声に似た感じですが、難しくてとてもまねができません。要領を聞くと、舌を上あごにくっつけて、あとはトイレで力むようにして声を出せとのことでした。トライしても出るのはガスばかり、ほんの一瞬そのおならがホーミーになっただけでした。

[舞姫 この娘が毎日私のゲルに訪れて来ては・・・]

以上です。  汚く終わって済みません、長々とお付き合いを頂きまして有り難うございました。




イザワ クリスマスオープンテニス大会観戦記

菱谷 好高 (豊中市 菱谷医院)

 今年(平成19年)12月16日、第19回イザワオープンテニス大会決勝戦を観てきましたので、私なりの感想を述べさせてもらいます。

 私は、ずっとテニスを楽しんできましたが、プロのテニスの試合は、テレビでの観戦は別として、これまで古くはジミーコナーズ、ジョンマッケンロウ、ピートサンプラスなどのスーパースターが来日した時に、ごくたまに観にいくぐらいで、ほとんど観たことはありませんでした。今回、友人から、イザワクリスマスオープンのチケットをもらい、たまたま16日決勝戦の日の予定がなかったので行ってきました。

 当日、10時開場、11時試合開始というので11時過ぎに試合会場である神戸ワールド記念ホールへ入りました。じきに試合が始まるかと思っていますと、バンド歌などのアトラクションが続き、テニスの試合にしたら少しにぎやかな、まるでボクシングの試合前のようでした。コートチェンジのさいにもにぎやかな音楽が流れ、クリスマスなのでまあいいかなとも思いましたが、もう少し静かな方がテニスの試合にはふさわしい感じでした。以前大阪府医師テニス協会報で原先生が提議された西医体の応援合戦を思い出しました。

 さてテニスの方ですが、11時30分頃にようやく開始されました。女子決勝は米村明子選手と大西香選手でした。米村選手は一昨年プロに転向し、今年全米オープン予戦にも参加した注目の若手プレイヤーです。お姉さんの米村知子さんも名選手で、昨年は知子選手が優勝しています。ちなみに知子選手のご主人は、高槻市医師会のドクターで、来年より大阪府医師テニス協会の理事をお願いしています角辻格先生です。角辻先生も名選手で、医師レベルをはるかに超えたプロ級のテニスの腕前をもっておられます。大西選手は園田学園の4年生で、今年全日本インカレで優勝した有望株です。

 試合は米村選手が高い打点からのフラットに近い力強いストロークでまさり、またドロップショットも随所にきめて第1セットを6-2で先取し、試合を優勢にすすめました。しかしながら、大西選手も特に強いという決め球はもっていませんでしたが、粘りをみせ、第2セットは逆に6-3でセットを奪い返しました。最終セットは両者譲らず、接戦で、米村選手が6-5より、デュースを繰り返した後、ゲームをキープし初優勝しました。ゲームを観た印象ですが、両選手とも一発のショットの切れ味はさすがと思いましたが、世界のトッププロの試合と比べますと、ラリーがあまり続かず、少し単調な感じがしました。上をめざすためには、もっとつなぎの球を上手く打って、緊迫したラリーが続けられるようにする必要があるように感じられました。しかしながら、テニスが攻撃的で、昔の女子テニスのイメージからは格段の進歩がみられていると思いました。

 次の男子決勝戦の前に、ゲストの伊達公子さんと浅越しのぶさんのインタビューと会場の観客の中から選ばれた人達との、ダブルスの簡単なデモンストレイションマッチがあり、会場をわかせました。

 さて、男子ダブルス決勝ですが、全日本ランキング2位の添田豪選手23歳と、同3位の本村剛一選手33歳の、日本のトップ選手同士の顔合わせで、かつ年齢からみても新旧の対決となり、非常に興味がもたれました。

 試合はさすがにトップ選手の戦いという感じで、ライジング気味のはやいボールでの緊迫したラリーが続き、随所にネットプレーもあり、非常に楽しめました。試合の内容は、本村選手がハードコートで有効なスライスサーブをうまく利用して有利に試合を展開し、セットカウント20で勝ち優勝しました。試合の印象としましては、技術的には、世界のトッププロと比較してもあまり遜色のないという感じでした。ただ、体力的に日本人男子が世界に出て行くには少しきついかなーと思われました。最初に書きましたが、これまではテレビでウインブルドンなどの試合ばかりをみて、日本人選手の試合はあまり見たことはなかったのですが、これからはもっと見るようにしたいと思いました。

 イザワオープンは関西ではあまり見られないプロの試合で、これからも時間があればまた行きたいと思いました。また今回はおしくも3回戦で敗れましたが、米村知子選手は大阪府医師テニス協会の理事の角辻先生の奥さんでもあり、大阪府医師テニス協会として何か応援できることがあればいいなーと思いました。たとえば、原統子先生にお願いして、大阪府医師テニスのホームページに戦積を載せて皆で応援するようにするとか、他に何か良い案があればしたいと思いますが皆さんいかがですか。さらに言いますと、大阪府医師テニス協会の副会長で、協会のほとんどの仕事をご夫婦でしていただいています。原文雄先生も全日本ベテランで頑張っておられます。これも我々としても、自慢できることであり、かつ応援したいと思いますので、同じように戦積を載せてもらえば有り難いと思いますがいかがでしょうか。勿論これからも全日本クラスの試合に出ておられる方がおれば、同じく応援したいと思います。

 以上、とりとめもなくイザワオープンテニスの感想を述べました。
会員の先生方も是非、日本選手の試合もご覧になられるようにお勧めします。


追記

ホームページ担当 事務局 原統子です。

 米村知子プロ:ヨネトモちゃんは、美人で可愛い上に素晴らしい身体能力に恵まれた魅力的なテニスプレーヤーです。私は一時、角辻先生と同じ病院に勤務していた時期がありました。その間にも彼らは愛を育んでいたようです…。美男美女でとんでもなくテニスが上手い2人です。将来、彼女が引退したときには協会のためにも働いてもらいましょう!!

 大阪府医師テニス協会のホームページ「LINKS」に「米村知子 公式ホームページ」をリンクさせていただいています。またこれとは別に「40LOVE」というプロテニスプレーヤーの情報の場があります。この女子プロブログにも「米村知子」のページがあります。是非ご覧ください。

今年のイザワクリスマスオープンのポスターは知ちゃんが2006年優勝を決めた瞬間の笑顔です。あんまり可愛いので、しばらく我が家の居間に張ってありました。2007年は怪我もあり大変でしたね。今年は健康で実力が出せますように!益々の御活躍祈ってます。皆様も応援よろしくお願いします。



『噛ませ犬』(2007年度会誌より)

京都府立医大名誉教授 高槻市 藍野病院院長 近藤元治

   

学生「先生は、何年テニスをしておられますか?」
 「そうやなあ。半世紀というところかなあ」
学生「半世紀って、50年ですね。ボクの親父が48歳ですから、それより前なんだ」
 「もっとも、長いことしてたら上手になるというわけでもないしなあ。 最近はパワーが落ちているのを感じるわ。君たちの溌剌としたプレーがうらやましいよ」
学生「先生は、もちろん高校時代からの経験者だったのでしょう?」
 「いいや。ワシらの頃は、高校で硬式テニスをしとるところは少なかったな。 ほとんどが軟式やった」
学生「じゃあ先生は、医大に入ってからテニスを始められたんですかあ?」
 「入学してテニス部に入ったのが10人で、そのうち2人が経験者やった。 はじめてラケットを振ってもボールに当たらず、先輩たちにからかわれるのが悔しくてなあ。 そのかわり、素人集団が結束してすごく練習したもんだよ」
学生「コーチを呼んできたのですか?」
 「いいや。その頃はコーチなどいないし、今のようなテニス雑誌もなかったからなあ。 上手な選手のフォームを真似したり、そうそう旺文社からテニスの本が出て、 それの分解写真を見ながら研究したもんや」
学生「分解写真・・・・・ですか?」
 「そうや。今はビデオもあるし、クラブに行けばレッスンも受けられる。 恵まれた環境やから、上達するのも早くなったなあ」
学生「じゃあ、どちらかと言えば我流の練習だったんですね」
 「それでも良く頑張ったのを先輩が認めてくれてね。 1回生の終わりに〈教養課程〉のわれわれと〈専門課程〉が試合をすることになったんや。 上級生は素人集団をバカにしていたから、ひとつ可愛がってやろうか・・・・・ というムードさ。負けたらスキヤキをご馳走してやる、とか何とか言ってね。 餌につられて、発憤したもんや」
学生「で、どうなったんですか?」
 「物のない時代でねえ。それまで、ワシらの練習といえば、 先輩が使ってすり減ったボールしか貰えなんだから、それに石灰をまぶせて白くし、 水を含ませて重くして打ち合っていたんや。ところがいざ試合になって驚いたね。 白いボールに字が書いてあるやないか。あの時は驚いたなあ」
学生「ボクたちには、想像もつきませんねえ」
 「結局、初心者と舐めてかかった先輩をワシらがやっつけたんやから、大金星や。 スキヤキが旨かっただけやのうて、大きな自信につながったのも忘れられん思い出や」
学生「先生が特に集中して練習されたのは、何でしたか?」
 「サービスの練習は、ひとに負けんほどやったなあ。 平安神宮の近くに、昔、進駐軍が使っていたガレージのコンクリート壁があったんや。 毎朝そこで、ボールが割れるまで一人でサービスの練習をしてたなあ。
それから大学に行き、授業もそこそこに練習に明け暮れたもんやった」
学生「サービスは相手がいなくても練習できますからねえ」
 「あの頃のワシのサービスはスピードがあったから、国体選手にも早さでは引けを取らなんだよ。シングルスが好きでね。ファース ト・サーブもセカンドも同じやったから、4本に1本サービス・エースを取れば、勝てなくても負けないやろう? そんな信念みたいなものがあったなあ」
学生「それで、今でも先生のサービスは格好いいんですね」
 「それよりも、お前たちのサービスは頭を使っていると思えんなあ。 たとえば野球のピッチャーを考えてみい。 球種がストレートとカーブしかなくても、スピードを変え、 内外角や高低をを考えて投げ分けるやないか。サービスも同じや。 球種を考え、フォアやバックに打ち分けなんだら、攻めにならんやろう」
学生「では先生。そろそろお願いします」


 春と秋、京都府立医大では「OB戦」が行われる。
 大学を卒業して、関連病院への出張とアメリカ留学の4年間を除き、定年退官するまで33年間大学に籍を置き、時間があれば学生の朝練にも参加してきた。おそらくOBの中でも、私が一番よくテニス・コートに顔を出した勘定になるだろう。
 そのOB戦のとき、ここ20年にわたり恒例になっている「キャプテン狩り」と名付けたシングルスの試合が早朝に行われる。OBたちが集まる前 に、私が新キャプテンとゲームをするのである。これは勝敗は兎も角、キャプテンにはプレッシャーがかかるようで、試合前に緊張している様子が可愛らしい。
 私の若い頃は勝つゲームが多かったけれども、最近では(決まった)と思うボールが彼らの脚力で返されたり、思わぬところでこちらにイージー・ ミスが出るなど、次第に分が悪くなってきている。それでも、彼らのトップ・スピンのボールをスライスや変化球で返して面食らわせたり、サービスで攪乱させ るなど、私には楽しい一日になっている。
 今年の秋は、10月に高松で行われた全日本医師テニス大会で痛めた足をテーピングしてのシングルスになった。ゲームの途中で逆をつかれて体勢が崩れ、不覚にもスリップして尻餅をついてしまった。10人ほどの学生が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
「何ともないよ。平気だ」
「休憩されますか?」
「いいや、大丈夫や。続けるぞ!」
 学生のいたわりを込めた(?)言葉を無視して試合は続けられたが、こちらは不細工にひっくり返った恥ずかしさが一杯である。
 数日後、ゴルフ場の風呂場で友人に指摘されたが、臀部に大きな青あざがついていた。


 OB戦のあとはコンパである。最長老(?)としての私の挨拶である。
「君たちは、『噛ませ犬』っていうのを知っているかい?」
「・・・・・・・・・?」
「土佐犬なら知っているね?」
「闘犬のことですね」
「そうだ。土佐の日本犬に外来のマスチーフやグレートデンなどの血を混ぜて、闘犬に仕上げたんだ」
「相撲のように、横綱や大関といった番付があると聞きましたけど」
「ああ、そうや。強い闘犬を育てるためには、勝ち癖をつけてやらねばならん。そこで、かつて横綱を張ったような試合巧者の老犬に口輪をつけて相手 を咬めないようにして、若い犬と闘わせるんや。若犬は自分が傷つかずに相手を攻撃できるから、次第に試合のテクニックを覚え、自信を持つようになるんや。 こうした老犬を、『噛ませ犬』という」
「・・・・・・・・・・」
「これまでの私は、〈キャプテン狩り〉を含め、OB戦などでは若い学生諸君に勝ちたいと思って真剣にゲームをしてきた。これは相手をしてくれた若いOBなら知っていると思うが、恥をかかんように自らの技術を磨き体力を鍛えるよう努力をしてきたつもりや」
「先生は、ゲームになると手抜きせずに真剣でしたから、こちらも緊張しましたよ」
「その私も、今年で古希になる」
「古希っていうと、う~ん。70歳でしたね」
「今日キャプテンと試合をして思ったんやが、本日を境に、私は君たちの『噛ませ犬』になってやろうと決心したよ。パワーや脚力では君たちに勝てんから、勝負は考えない。だが私のテクニックはまだ棄てたもんやないから、それを君たちに盗んで欲しいんや」
「もちろん先生も、口輪をつけて下さるのでしょうね?」
「あは、はは。それじゃあ君たちのためになるまい。『噛ませ犬』だって逆襲することもあるから、安心してたらひどい目に遭うかも知れんぞ。老犬も日向ぼっこだけではなく、密かに牙ならぬ技を磨く努力をしているかも知れんぞ」
「あ、その目! 口とは裏腹に、闘争心がメラメラと燃えているようですよ」
「これはいかん。君たちに見破られるようでは、まだまだワシも未熟じゃなあ」
「先生。朝練にも来てくださいよ」
「早起きは得意やから、せいぜい参加するよ。それよりも君たちは子供の頃から、勉強にしろスポーツにしろ、〈教えて貰う〉〈与えて貰う〉という習慣がついているやろう? これからは〈自分で何かを見つける〉という習慣をつけにゃいかんぞ」
「たしかに、教師やコーチに言われる通りにすれば良かったですからねえ」
「卒業して医者になり、いろんな患者に出会うことになるやろうが、本に書いてあるマニュアル通りにいくとは限らんことばかりや。経験豊富な先輩か ら〈何か〉を盗むのも大切やし、〈患者という教師〉から得られるものも多いはずや。そうした努力次第で、良い医師になれるかどうかが決まってくるもんやか らな」 
「分かりました。テニス・コートでは先生の全てを吸い取りますから、覚悟していてくださいよ」
「お前たちに吸い取られて何も残らんようになっては、ワシもおしまいやな」
「大丈夫です。先生には我々の、若いエネルギーを差し上げますから」


テニス部とロマネコンティ(2007年度会誌より)

                   高槻市 川口医院 川口憲明


     
“ロマネコンテイのワイン会をテニス部でやりませんか?”

前年ソムリエールの免許を取られた中嶋先生の奥様の言葉がその発端であった。
それまで小生は赤ワインに興味がなく、白ワイン一筋。それもフルーテイなドイツワインしか飲んだ事がなかったのである。赤ワインといえば、“色と 香りだけのもの”、渋い上に酸味が強く、土臭い味が気になり、一度たりと美味しいと思ったことがなかったのである。どちらかと言えば赤ワインを飲む時は、 単に格好をつけて雰囲気のみを楽しんでいたと言っても過言ではあるまい。

“ロマネコンテイと言ってもたかが赤ワイン。ブランド名だけ先行してあまり美味しくなく、ただ単に西洋人が格好をつけるために高額な値段をつけて売っているのにすぎないんじゃないかなあ?”というのが本音であった。

まあ話の種にもなるし、一度は経験するのもいいだろう。
最近のテレビ番組で紹介されたロマネコンテイ1本の価格は約100万円。当時中嶋夫人が行きつけのワイン店で好意的価格で手に入れて頂いたのが35万円。

35万円が安いか高いか?・・・・・・やはり高いでしょう!
中嶋夫人が一番心配されたのは、“この35万円のワインが腐っていないか?”ということであったらしい。この世界ではワインが腐っていても“たまたま運が悪い”ということで片付けられ、文句を言える筋合いではない“との事であった。

“一生に一度飲めるか飲めないかのロマネコンテイ・・・・・”ということで部員並びに奥様方約20人が1本のワインに群がりました。オリを落として一人ほぼ30ccで2万円弱です。

さて、初っ端からこの貴婦人を賞味できたかというと、さにあらず。最初はシャンパン、白ワイン、普通の赤ワイン。我々部員が持ち寄った平 均的な日常ワインがコース料理の前座を務めたのである。客を焦らせるというのも味を高める常套手段なのでありましょう。それらの企みに抵抗することなく私 達は主役の登場をじっと待ったのでありました。

ひとかどのコース料理、ひとかどのワインがその役目を果たした後、やっと貴婦人は姿を現しました。
赤ワインなのに琥珀色に近い色調。
甘い動物的なフェロモンの香り。
味が問題です。
一口目、普通のワインより少々マイルドな味?? しかし余り変わりばえがない??? それほど美味しくない???? 暫くして中嶋夫人が言いました。“この味を覚えておいて下さい。これから徐々に変化してきます。”――――――――本当かいな?? しかし摩訶不思議。時間の経過にしたがって硬さが消え失せ、まろやかなフェロモンに満ちた上品な味わいが口中に広がります。夢のような感触です。
“今が頂上です。”と中嶋夫人。
至福の時です。そしてこれがロマネコンテイなんだ!!
飲み干すのが惜しくて少々残しておきました。
しかし間違いでした。その後15分位から酸味が出てきて、20~30分で舌を刺激するようになり、さすがの貴婦人も色あせた老婆に変身しました。
一瞬の刹那を楽しませ、はかなくも消えていく高価な夢のショーの終焉です。


このワイン会以後、私共(高槻医師会テニス部員)はワインに取り付かれることとなり、数10分の夢のような陶酔を求めて毎年2~3回ワイ ン会を持つようになったのです。無論、ロマネコンテイというわけには行きません。色々なワイン、フランス~イタリア料理が私達を満足させてくれます。テニ ス部が一転して“高槻医師会ワイン~アル中会”の結成となります。

自慢じゃないですが、我がクラブはテニスレベルに関しては高いとは言えません。お世辞にも無理です。そしてそれは断言出来ます。(少々 くどい)しかしワイン好きに関しては相当なものと自負しています。テニス部例会の出席率よりもテニス部ワイン会の出席率の方が抜群にいいということがそれ を証明しています。
ソムリエールの中嶋夫人の指導宜しく、私どもは今後様々な国、地方、年代のワインを求めて楽しみ、さまよって行くことになるでしょう。これも、初っ端から一番美味しいロマネコンテイを飲んでしまったからであります。


さて、私にとって
テニスとは動に楽しみを求めるもの、
ワインとは静にロマンを見いだし、語らいの騒音に安らぎを感じるもの
一人でもよし
妻と二人でもよし
友人達の狭間でもよし


異常事態 西医体(2006年 西医体観戦記)

豊中市 緑ヶ丘病院外科 原文雄


母校の監督を拝命したので、27年ぶりに西医体を覗いてきました。
ストロークなどの技術の進歩への言及は敢えて省略します。
コート上は噂以上の異様な恥ずべき光景の連続でした。
例外なく全ての大学で、サイドラインに陣取った”応援部隊”が1ポイント!!
終了毎にコート内に入り込みプレーヤーに駆け寄って数名で取り囲みます。
プレーヤーに対してパラソルをかざし、氷嚢で頭頚部を冷やし、団扇でアオギ、 汗をふき取ってやります。
同時に”良くやったアンタはエライ!”とか”ポイント取られたけどドンマイ!” とか大声でハヤシ立てます。
毎回30秒以上同じ騒ぎが繰り返され”応援団”がサイドラインに戻って オモムロに次のサーブが始まります。
1ポイントでこの状態ですから1ゲーム終了時、ましてやチェンジコート時の 騒動、時間浪費は推して知るべしです。
プレーヤーのマナーの悪さも目につきました。
ポイント取ってネットまで駆け寄り拳を突き出して”カモン!”などと相手を挑発します。
非スポーツマン的行為の博覧会です。
相互審判制度ですから後輩、同僚のジャッジに対しても文句をつけます。
インジャリー、トイレット、果てはコンタクトレンズ休憩・・・・・ ありとあらゆる遅延行為がまかり通っています。
当然試合は長引いて翌日持ち越しは茶飯事です。
私が管理人ならこういう集団に二度とコートは貸しません。 通りがかった部外者が騒乱を見て”呆れ”を通り越して”変質者グループ”と認識していました。
”イガクブの学生さん達らしいよ”って声をひそませていたのが耳から離れません。

いつからこんな事態になったのでしょうか???
”昔は”とか”紳士的たれ”とか言うつもりはありません。
ただ多くの学生さんは知識が無いと思われますがテニスにもルールブックがあります。
各ポイント間は最長20秒かつ休憩目的使用禁止、チェンジコートは最長90秒、
セットブレークは最長120秒、試合前練習は最長5分、プレー中外部からの全ての助言禁止、
対抗戦で1名の監督のみ付き添い可、倫理、服装規定・・・・・・ ・・・上記に対する違反規定・・・・

全てが記載されています。
ルールブックに従わない者はテニスする資格はありません。

勿論、個々の学生さんを非難しても無意味なことは分かっています。

問題の根源は医学部テニスの閉鎖性です。
”井の中の蛙”外界を見ることなく育った学生さんは現状を当然と理解しているはずです。
準鎖国を続けている間に歪んだ形式が定着したようです。
医学部テニスの常識は世間の非常識であることに 早く気付かせて膨大な時間の浪費を終わらせる必要があります。

東医体ではすでに”応援”に名を借りた遅延行為に禁止合意ができていると聞きます。
西医体では各校間の意見調整の場の欠如も組織的な欠陥です。

以上より2段階に分けて私の意見を提示します。
1段階目は速やかな実施が必須と思われるものです。

A)テニスルールハンドブック完全準拠
  応援の禁止、もともと対抗戦においても一名の監督を除きプレーヤー以外は   コート内に立ち入ることは禁止されています。
  遅延行為の禁止。その他禁止行為違反に対するポイント、ゲームペナルティの厳格実施。

B)トイレット以外全てのブレーク禁止。
 特にインジャリータイムが目的外利用されているのが不快でした。

   2段階目は西医体に対して私個人が導入を推奨する事項です。

A)母集団が数百人という医学部が一般大学の”王座決定戦”を模倣することに  無理があります。男子の場合6人レギュラーに固執するなら単4本、複1本で勝敗を  決してはいかがでしょう?単複選手重複を禁止して6名。試合順も不問になり  5面でやれば2時間でケリがつきます。
 同様に女子は単2本、複1本で選手計4名ですね。  別に単3、複2でも何でも構いません。単複重複出場禁止がミソです。  オーダーも良心に従って実力順で出し合えば更に気持ちが良いですね。

B)遠来にもかかわらず早く勝負が決して味気無いというのであれば   ワールドカップサッカー方式です。予選リーグで8校か16校に絞ってあとは決勝トーナメント。   ちなみにA)方式単複重複禁止でやれば1日2試合は可能です。   予選リーグは4-5校1リーグが適切と思われます。

C)やはり居ました。延々ロブ上げてるヤツ。これは選手個人のテニス技能上達を阻害します。   これにはローカルルールで対応です。”90分シバリ!!!”   各セット開始後90分を経過してもそのセットが終了しない場合は90分経過時点を   ラストポイントとします。90分経過時点で1ゲームでも1ポイントでも勝っている方を   そのセットの勝者とします。 普通にやれば90分でセットのケリはつくでしょう。       当然プレー外遅延行為禁止が大前提です。  

D)相互審判の廃止。  セルフジャッジで十分。自分の良心、視力に自信が無いなら  中立大学からソロチェアーアンパイアーを派遣しあう。

E)副審、球拾いの廃止。  選手なら自分で走って取りにイカンカイ!!!!!

ゴメンナサイ、思い出したらついついムカッ腹がたってきました。

私見に対して先ずは各校OB重鎮の皆様のご評価賜りたいと思います。 賛同頂ければ、各大学に”こんなこと言ってるヤツが居る”とお伝え下さい。
ウチの関西医大は今秋から何としてもルールブックを守らせます。
原文雄


        筋トレのすすめ(2006年度会誌より)

         亀岡市 亀岡市立病院麻酔科 橋本朋子

                     

何か柔らかい話を、と会誌の原稿を依頼されましたが、根が「くそ」がつくくらいのまじめ人間で、 日々くそまじめに麻酔と外来ペインクリニック業務をこなしていて、ちっとも柔らかい話を思いつきません。
申し訳ありませんが、私の堅い体と筋トレの話をさせていただいていいですか?

最近では医師会のテニスの試合に行くと懇親会などで筋トレをお勧めすることが多くなり、 橋本といえば筋トレ、といわれている(へっ?いない?)私ですが、筋トレを始めたのはもう7年くらい前になるでしょうか。
そのころちょうどダイエットを思い立ち、食事療法と運動療法を併用すべく、ダンベル体操を始めました。
私がもう9年もスクール生として通っているテニスクラブには立派な設備の整ったフィットネスルームがあります。
レッスン前にそこでもダンベル体操をしようと出かけたところ、同じレッスンを受けているちょっとエッチなS氏に捕まりました。
S氏は現在65歳の自称元ボディビルインストラクターです。
テニスは当時まだまだ初心者だったのですが、週に3,4回もレッスンを受け、いつもフィットネスルームでバーベルを持ち上げたり 腹筋を何十回とやったりしているものすごいマッチョなおじさんです。
すぐに話題が下半身方向へ進むのでちょっとおそれられていましたが、根は本当に気のいい親切な方で、 私に器械の使い方、負荷のかけ方、どれくらいのサーキットトレーニングからやればよいか、 などなど(聞きもしないのに)それは丁寧に文字通り手取り足取り(時には腰にも手を添えて) 指導してくださいました。
はじめは引き気味だった私でしたが、いわれたとおりのメニューを3~40分もやると普段の 凝ったような堅い体がなんだかすっきりとよく伸びて柔らかくなったような感じがしました。
それからは根がくそまじめな私は、始めたからには続けようと決心し、週に2回はレッスンに行き、 そのたびにS氏におだてられほめられつつ筋トレをしました。
(レッスン生はフィットネス使用料無料だったのです!このことも継続の強い後押しとなったのは事実です。)
                  
S氏の指導で少しずつメニューを増やし、負荷をかけていきました。
器械による筋トレは、5キロ、7キロ、10キロ、と負荷をふやしていく過程が数字で明らかなので非常に励みになり、 よーしもっとがんばって見ようという気にさせられます。
また、どの器械による運動がどの筋肉を使うトレーニングなのかがはっきりしているので、 慣れてくると自分が使っている筋肉に意識を集中することができるようになりますし、 自分が特に弱い筋肉、ここを強化したい、と思う筋肉について意識してトレーニングすることができます。
でも、筋トレは筋肉をむきむきっとつけることができるほどしようとすれば並大抵のトレーニングではありませんよね。
私のレッスン前の筋トレは、S氏の指導により、筋肉を柔らかく保つことがその極意であると学びました。
半年ぐらいたつと、ダイエットの効果で体重は7キロ減り、それまで時にしくしく痛んだ膝が、 テニスをしても全く痛まなくなり、走り続けられるようになりました。
はじめは調子よくスマッシュやサービスが入っていても、3~4セット続けると確率が悪くなっていたのが、 背筋のトレーニングをしてからは、長時間にわたり肘が高く挙げられるようになって、 スマッシュもサーブも楽に打てるようになりました。
本当にいいことばっかりやん!
私は体が堅くて(頭も堅いけど)、筋肉もかちかちになりやすいので(試合になると精神的にもかちかち)、 特にレッスンや試合の前に筋トレをして、筋肉を柔らかくすればけがや故障も防げる、とS氏にいわれましたが、 その通りだと実感しています(頭を柔らかくすることは筋トレでは無理です)。
                  
いいことばかりの筋トレですが、問題はあります。
一つには体質にもよると思いますが、私はそもそも筋肉質で力持ちだったのですが、 筋トレを細々とながらも続けているためか、肩や腕の脂肪が落ちて、筋肉がムキムキっと盛り上がってしまいました。
子供たちにお願いやからお母さんノースリーブの服きんといて!といわれるし、 前腕の筋肉もついたので細身の洋服の袖が……えっ!通らへん!!ということになるし、 美容院でマッサージをしてもらうと、肩が凝ってるわけではないのに肩の筋肉をさわった美容師さんに、ひどく肩凝ってますねー、 盛り上がってますよ、とかいわれちゃうし。
なで肩で筋肉のつきにくい、ぷよぷよっとした体の夫と比較すると男女を入れ替えた方がいいくらいです。
でも筋トレを続けるにはある意味ナルシストになりきらなあかん、と思っています。
筋肉ついてるからだはきれいやなあ、おなかが縦に割れててかっこいいなあ、と鏡を見て 自分をほめているわけです。(私は変?)
                  
ところで私はペインクリニックをやっていますが、腰痛、肩こりなどの患者さんがたくさんおられます。
治療に際してはどうしてもペインクリニックの技術を駆使することが主眼となってしまい、 つい神経ブロックに頼ってしまいますが、このごろはそれだけでなく、自分でも腰痛体操や肩凝り体操、 ストレッチなどを少し勉強して、患者さんに日常生活の中にそういう運動を取り入れていただくよう指導しています。
患者さんの性格にもよりますが、メニューや回数などを計画して差し上げると、 毎日こつこつ実行され、調子がよいといわれて感謝されることもたびたびです。
これからの医療は予防が大切になってきますし、寝たきり老人を作らないようにするためにも、
40歳代からの筋トレ、というのをどこかで提案していきたいものだと思っています。
(なーんて大きいこと言ってますが最近忙しくて筋トレ時間が十分とれないのです。
医師会のテニス仲間に筋トレをお勧めしても、やはり場所と時間がとれないと言う方が多いのが現状です。
家庭でできる有効な筋トレの方法を考案しなくてはいけませんね。)
これから年齢を重ねるとともにテニスを続けるためには下肢の筋力がものを言うようになると思います。
(私も最近腰痛が....)
膝や腰に弱みをお持ちのみなさん、筋トレしませんか?
一人より二人、二人より三人、筋トレ仲間を増やしましょう!
テニスの技術も磨かなあかん。体だけでなく頭も柔らかく保たなくては。
根がまじめで堅い体と頭の私のテーマはまだまだたくさん。
がんばります。


テニスはやっぱりシングルス! 何が何でもシングルス!!(2006年度会誌より)

港区 大阪船員保険病院放射線科  中西克之


   
原文雄先生より投稿のご依頼をいただいて以来、まずタイトルをどのようにしようか、悩み続けました。
悩んだ挙句、「テニスはやっぱりシングルス」という気障でしかも地獄に落とされるようなタイトルにしてしまったことを、 多少後悔しております。

私はテニス歴が長いにもかかわらず上手くなりません。
かと言って他のスポーツを今更始めようとも思わず、多くの方々と同様、筋力維持とプレー後の 美味しいビールを目的に週1回1時間のペースでプレーしております。

テニスとの出会いは清風南海高校1年の時、一応テニス部に入りました。
しかし、進学校で何かと運動部にはうるさく、何となく燃焼しきれず1年半でやめてしまった自分にとって、 高校3年と1年間の浪人期間、大学に行けばもう1度ちゃんとやってみたいと思っていました。
そういう意味では本当にテニスに出会えたのは、やはりちょうど原先生が主将をされていた 全盛期の関西医大硬式庭球部に入部したときだったと思います。
その4年後に、私も主将を勤めさせていただきました。
もちろん、この大学6年間での経験はテニスに限らず自分の今の人生にかけがえのない 財産になったことは間違いありません。
しかし、その頃のプレースタイルやプライドだけでは今のテニスはどうにもならないように思います。
これはラケットの改良やクレーコートの減少が招いたテニスの変化が原因でしょうか。
今では昔教わったテニスの常識を忘れ、「腰を落とさない。」「横を向かない。」 「無駄に足を動かさない」の3点に気をつけ、一番大事な「力をぬいてラケットヘッドを走らせる」 ことにつなげようとしているのですが、なかなかうまくいきません。

何はともあれ、大学テニス部での生活を終えようとした時は、 「もうこんなしんどいスポーツは嫌だ。ゴルフに転向しよう。」などと、考えたものです。
現に卒業後、大阪大学放射線医学教室に入局した私はむしろゴルフに走っていました。
しかし、当時の教授がテニス好きだったこともあり、最低限の「接待テニス」はしていました。

そんな自分に再びゴルフに見向きもせず、テニスに走らせたのは- - 。
それは留学であったと思います。
私は1993年の2月から8月まで、ドイツ連邦共和国のアウグスブルグ中央病院 (南ドイツ、バイエルン州でミュンヘンの隣町と考えていただきたい)に留学をしていました。
当時の私の上司であった阪大放射線科小塚隆弘教授がアウグスブルグのProf. Bohndorfへの 私を紹介する手紙の中で” He is a good tennis player.”という一文がありました。

留学中の93年3月、スイスのダヴォース(Davos)で学会があったある日のことです。 「学会のアトラクションでテニス大会がある。夫婦で参加してみたらどうだ。 参加する限りは優勝してこい。でなければアウグスブルグに帰ってくるな!」と厳命されました。
てっきり夫婦のミックスダブルスと思い込んでいた私たち夫婦は体育館に行ってみてびっくり、 シングルスの大会だったのです。

その時の試合結果は忘れましたが(おそらく優勝したと思う??)、以後も留学中、 お世話になった友達夫婦とよくテニスをしました。
当時のドイツは、グラフ、ベッカー、シュテッヒなど、テニスの全盛時代、 サッカーと並ぶmajor sportsだったと記憶しています。
最初、私の裁量で自分たちのアパートの近くのテニスコートを予約して彼らを招待しました。
日本人的感覚で、夫婦合わせて4人で1面のコートを確保し、ミックスダブルスを始めた途端、 相手夫婦は何やら早口のドイツ語で口論を始めました。
後で話を聞いてみると、”Wir haben nie Doppel gespielt”(ダブルスをやったことがない)、 従ってどこに立ったらいいかわからず、口論をしていたようなのです。
さらに彼ら曰く、「我々は、普通ダブルスはしない。 それに夫婦でそんなことをしたら喧嘩になるだけじゃないか。シングルスをやろう。」

以後、私は友達のdoctorと、家内は彼の奥さんと別々な場所でとことんシングルスをやるようになりました。
季節も4-7月、ヨーロッパが最も美しい時で、夜は10時まで明るく、しかもコートはアンツーカー、夢のような思いでした。
今、医師会のホームページで世界医師テニス大会のヨーロッパでのお話を拝読すると、 この時の想い出が鮮やかに甦ります。
実際シングルスをしてみると、さすがはドイツ人、無茶苦茶にパワフルで、私の友達など、 2時間みっちりとシングルスをしたあと、大ジョッキーのビールを飲み干し、これから病院の NachtDienst(当直)と言ってけろっとした表情で仕事に行ってしまいました。
とにかく、この半年の「テニス留学」は学生時代以来、すっかり忘れていたシングルスの楽しさと苦しさが自分の中で甦り、 「金と時間のかかるゴルフはやめ、やっぱりテニスだ。しかもシングルスだ。」との思いを強くしました。
それにしても何故、ここまで彼らはシングルスばかりなのでしょう?
むしろ、初心者ほど、シングルスばかりしたがります。 ダブルスをやったところでformationはまるで駄目。これは日本ではちょっと考えにくいことです。
私が思うに、日本にはソフトテニスという独自の「文化」がある。 これを経験している人たちが自然にダブルスを中心に考えているところがある。
さらに日本では1面のコートを2人で占領する空間的、時間的、金銭的余裕がない。
こういったところが要因でしょうか。

それから12年が経ちました。
以後、忙しい現実の生活の中で細々とテニスを続けているだけでしたが 今年の3月、久しぶりに医師会のシングルス大会に参加させていただきました。
結果はともかく、へとへとになりながら、コートを占領できる幸福感に浸りきりました。

上述したように日本ではコート確保のむずかしさからか、底辺の草試合がどうしてもダブルス主体になっているように思います。
そんな中でいわゆる週1プレーヤーがシングルスをどんどんやる、このような環境になればもっとテニスが発展するのに、 などと考える私は変わり者でしょうか?

ここまで書き、大学1年のときに原先生から言われた一言を思い出しました。
「1年生同士、遊びでゲームを楽しむのはいくらでも構わない。でも同じゲームをするのならシングルスをするように。」

アウグスブルグの室内コートでプレーをする筆者。
確かこれは3月、外はまだ寒く、室内でしかできなかったと記憶している。

友達夫婦とテニスをした後で。
彼は身長190cm以上、足の長さが全然違う。サーブは凄かった。


           私とテニス(2005年度会誌より)

          旭区 伊藤小児科医院  伊藤 謙吾
       ( 旭区医師会テニス部部長)(大阪府医師テニス協会 前 理事)

               
そもそも、私が運動をしているのには、自分を初め友人達もびっくりされていると思います。きっかけは、親父が肥満体質で車にどっぷりの状 態で、約30年前の夏のある日突然に心筋梗塞で亡くなってしまった事によりました。私のいる医師会にはその頃は大阪でも最強のテニス部がありました。部長 のA先生の勧めもあり早速、体のためにとテニスを始めました。その後何年かして、少しは試合になるようになって、府医師テニス協会の世話を手伝うことにな りました。その頃は、今と違って沢山のテニスコートがあるわけでもなく、回り持ちの幹事は大変でした。その際には「長居テニスコート」を主に使っておられ た「東住吉区」の先生方に大いにお世話になりました。その状態は最近になり「北村のコート」を使うようになるまで続きました。その時のエピソードとしてテ ニス場の受付と世話をされておりました女性に、並々ならぬ気を使ってコート取りに終始していたのを思い出します。
また、現在のようにクラブハウスもきちんとしたものがなくて、兵庫の先生には「大阪にはちゃんとした場所がないのですか?」と言われてしまいま した。なにせその近くには大勢の人の集合できるような宴会場がなかったもので、しょうがありませんでした。その他、天気に一喜一憂するのは今でも変わらな いと思いますが、天気に関する苦い思い出として、平成6年の「全日本医師テニス大阪大会」があります。雨のことも考えてインドアーを押さえたのですが当日 は運よく晴天で、キャンセル料をとられてしまい、はかなくも運営費が赤字になってしまいました。この全国大会は、コートの確保や宿泊施設等の準備が大変 で、大都市では費用もかさみます。この時も1年前から準備しても、実際に詳細が具体的になるのは開催のほんの1,2ヶ月前です。今から思ってもよくぞ何と か運営できたものだと、皆様のご協力にただただ感謝のみです。
あとは、いかに楽しく参加者を多く募るかに苦労を致しましたが、それも楽しい思い出です。現在お世話頂いている方々、大変だとは思いますが宜し くお願いいたします。最後に最近ある一文を他誌に載せましたのを転載いたしますので、拙文ですがお読みくだされば幸いかと思います。

世界医師テニス大会  テニスの恩人F先生の思い出


「おい、お前の葬儀委員長をやったるぞ!?」と言われたときは、もはやテニスは無理かなあと思いました。
思い起こせば、それはF先生に連れられて、初めて参加しましたアメリカのタンバ(ここはアメリカの大阪と言われるほどの商業都市で、最近では ニューヨークヤンキースのキャンプ地として有名なフロリダ半島の都市です。)で行われました「世界医師テニス大会」の事でした。なにせ、すべてが初めての 経験で、それもまだテニスが大して上手でない頃で、緊張と8月の暑い季節と水不足(今のように手軽にスポーツドリンクが手に入る時ではなかった)によっ て、足から始まって胸部に達する筋肉の痙攣(いわゆる こぶらがえり)になって、救急車で地元の病院に外科のY先生に連れていってもらいました。
そこでは痛み止めを注射されて(これが現在にも及ぶ坐骨神経痛の基になりました)帰されて、その晩、体を暖めて痛みと戦って何とか翌朝には治り ました。その時のY先生に教えていただいた漢方薬の「芍薬甘草湯」の効果はその後の私のテニスに最大の貢献をいたし、大変感謝いたしております。
そのようなことがあっての冒頭の言葉になったのです。さらにその上に恐ろしい事が起こったのです。といいますのは、日本に帰る前の日に我々の泊 まっていましたホテル(この年は急遽、米国に決まったために、ホリデーインしかなかったそうです)に、ハイウェーからよりによってF先生ご夫妻のお部屋に ライフル銃が撃たれたのです(このホテルがたまたまハイウェーの横にあったため)。しかし幸いに何等被害を受けられなくて(それもそれが判ったのは明朝で したが、それというのも冷静沈着な先生でしたので我々のようなものと違って何等慌てられることなく処理されたとの事でした)ホットしました。
小生にとっては、一生忘れられない出来事の連続でしたが、それがF先生に魅了されて、テニスへの精進を前にもましてすることになりました。その F先生はその後も何度も大会にご一緒していただき、夫婦共々大変感謝しています。 その先生が突然重い病気になられて、何度かお見舞いさせていただいた時 の忘れられないエピソードが今でも鮮明に思い出されます。
お見舞いに行った時に、病室の窓越しに「ポーン、ポーン」とどうもテニスボールを打つような音が聞こえていました。その時はまだまだテニスをさ れて良い状態ではなかったのです。そのとき先生は、ベッドの下から風呂敷包みにくるまれたテニスのラケットを嬉しそうに出されて「おい、今度はだれにも負 けないぐらいのボールを打つのを編み出したからなぁ!」と言われました。「ここからも聞こえるようにテニス場が近くにあるんだよ。そこで先日退院前の散歩 の許可が出たので、50球程テニスをしたら、いっぺんに退院を取り消されてしまった」。このテニスにかける情熱にはびっくりもし感動もしました。
その先生の最後の言葉は、奥様の言われるには「テニスがしたい!!」だったそうです。ここに先生の生前の活躍を思い、この文章をあの世の先生にささげたいと思います。


       なぜ、今テニスをしているのだろう?(2005年度会誌より)
        枚方市 香里ヶ丘有恵会病院外科 山田 修

               
大阪府医師会のテニス大会に参加させて頂くようになり、まだ3年程度だと思います。以前、勤務していた病院で大阪府医師テニス協会の岡 征雄会長、前回、会員寄稿された小西正人先生また、テニス協会の原 文雄副会長や道田知樹理事など多くの先生と出会う機会があり、テニスの試合に参加することが多くなりました。試合経験の少ない私は、試合の面白さや勝つ難 しさを知ることとなりました。
テニスに出会ったのは中学生の頃でしょうか? 中学生の時はサッカーをしていたのですが、グランドの遠い所でグランドとは違い綺麗に整備された土のコートがありました。けっしてサッカーのスパイクでは 踏み入ることが出来ない聖域だった記憶があります。そのころ何故かカワサキのウッドラケット『オールマン』を買ってもらい、友人と休日に中学校の聖域でテ ニスのまねごとを始めました。
テニス歴?は長いような短いような
テニススクール歴は大学生頃からでもう20年近くにはなりますが、試合参加はここ数年ですから真のテニス歴は5年としておきます。余りにも長いテ ニススクール歴、インドアという環境のもとマンネリ化していたテニススクールは楽しくボールを打つのみでしたが、試合に出るようになりスクールでの練習も 試合に使えるショット(ストローク、ボレー、サーブ、スマッシュなどすべて)を考えながら通えるようになり最近は充実してきました。スクール以外にも医療 関係者(医師、看護師、パラメディカル、MRさん)やスクール仲間と仕事終了後に集まり、テニスをすることもあり(写真)、練習のやり過ぎ?、無駄な力の 使用?、テニス前後のウォーミングアップ、クールダウンを疎かにしているためか?テニスエルポーに腰痛症、次は肩にガタがきつつあり、そろそろ身体のメン テナスは勿論、テニスもこれから年齢に合わせ変化させていく必要がありそうです。
2004年は大阪府医師テニス大会シングルス、ダブルスほか他県医師会との親睦テニス大会に参加し、無謀にも全日本医師テニス大会(北海道)ま で参加してしまい、またまた試合に勝つ難しさを思い知ることになりました。次回、2005年全日本医師テニス大会は天然芝で試合ができると聞き、一生に一 度はそのコートでテニスをしてみたいもので、性懲りもなく次回も参加させてもらおうかと考えています。
なぜ、今テニスをしているのだろう?
それは勝つ難しさを知ってしまったからでしょう。コートサーフェイス、太陽に風、それにメンタル、様々な状況下でどれだけミスなくプレーでき、確 率良くポイントがとれるかが未だ分からないからでしょう。楽しく、面白くのプレーだけなら、いま頃テニスやめて他のスポーツをしていたかも知れません。し かし、それほどストイックにテニスをしているわけではなく、仲間どうしで楽しくプレーできれば一番なのかも知れません。

「 寝屋川、門真、枚方地区テニス仲間」

「大正区泉尾地区テニス仲間」


テニスはいつまでできるかな(2005年度会誌より)

池田市 前田クリニック 前田 育子


この前の秋、日本医師テニス大会が札幌で開かれました。学生時代からのパートナーの林先生と女子ダブルスに参加しました。京都大 会から、さいたま、札幌と、3回目の出場です。日頃の練習は、週2回近くのテニスクラブで、夫相手に半日程度をつづけていました。札幌でゲーム中右膝を傷 めてしまいました。10日たっても膝の腫れが退きません。整形外科受診しました。なにはともあれ、体重を減らしなさい。そうすればたいがいの不都合は解決 する。私の身長から計算すると、60キロまで減らしなさい。永い遠い目標を持つのが好いいんだと勧められました。はっきりいわないけど、膝は変形性関節症 になってるらしい。これは治らないとこまで進んでるんじゃないの。動かしたほうが好いの?安静にしたほうが好いの?なんでもいいから体重を減らそう。痛く なくて膝に負担のかからないことをして見よう。4ヶ月経って、目標体重まであと3キロになっても、膝は腫れます。このまま足が曲がらんようになるのかい な。動かしても、じっとしていても関節の中に水が溜まります。ああ私も、50代半ばやったんや。この膝は寄る年波ということか。夫は’テニスもうでけへん な’と、いいます。私は意地になって、テニスはやります。いつまでテニスできるか、いつできなくなるか、ほんとの所、わかりません。
テニス復活はなかなか思うように行かない一方で、傷めた膝を楽にするために始めたダイエットは私の生活に光明をもたらしてくれました。生まれて 初めてといって好いかもしれません、お料理するのが楽しい。玄米食、野菜料理。魚の料理献立を充実させて、しっかり食べてゆっくり痩せる。ガスレンジも傷 んでいたので新調したら、最近のは優れていますねー。台所に居る時間がたのしいです。あと少し体重を減らして、ぼちぼちとテニスをやれたらいいなと思いま す。できたら九州ウィンブルドンへ行く事を楽しみに。
猪名川町日生中央で開業していますが、ニュータウンの周りは田舎です。年取った地の女の人は、長い年月畑しごとをして、それは、体にきついこと だったでしょう。O脚で、腰が曲がり、膝が曲がらない。80歳を超えてもまだ畑にいくのがすきだといいます。畑の収穫も楽しみでしょう。しかし、畑の手入 れに雑草を曳いたり、土をさわるだけで、清清するといいます。
おもちゃを取り上げられたら、こどもがますますそれを欲しがるように、膝を傷めて、テニスという楽しみを失うのかと思ったら、それがますます大 切になりました。食事を考えなおすことが必要になって、自分自身だけでなく、自分の周辺の健康管理も見直す機会になりました。夫を含め、一緒にテニスして くれる人達みんな達者でいてね、怪我をしないでねと祈ります。

「全日本医師テニス北海道大会にて」



”中古オムニ激安移植に成功した希な一例”(2005年度会誌より)

豊中市 緑ヶ丘病院 原文雄
(大阪府医師テニス協会 副会長)


今回上記を経験しましたので症例報告をします。全国のテニス愛好家の皆様、特にこれからプライベートコート建設を考えておられる 先生方には耳寄りかつブラックな情報と思われます。”オムニ”は某社固有登録商標らしいのですが面倒なのでここでは仮に”砂入り人工芝コート”総称としま す。
四国、徳島の実家裏庭に82歳の親父が時折老人会を行う住友ゴム社製”マテフレックス”だっけ??20年物の朽ちかけたプラスチック製のテニスコートがあります。まだオムニが一般的でない頃ビルの屋上なんかによく敷いてあった玄関マットみたいなヤツですネ。
去年春、私達が所属していた大阪のMBSというテニスクラブの閉鎖が決まった時に事態は動き出しました。使用頻度の加減で6面オムニの内2面はタ イヤでいえば”7分山”でした。何とかこれを田舎で再利用できないかと考えてクラブ閉鎖後”タダ”で貰い受ける約束を取り付けました。
通常のコート施工業者数社と折衝して見積もりを取りました。例外なく250万円前後、新品設置より高い値段を出してきました。言い訳の全てを用意して”やめときなはれ!ロクな結果になりまヘん!”と説得されました。そう!彼らは新品を売りたいのです。
私も殆ど諦めた頃、”闇のテニス屋”を営む友人から”アイツならやるかも知れん”人物を紹介されました。本業は内装、カーペット屋、ついでに大工、土木もやっちゃうという万能かつ訳ありっぽい、外見不可思議なオニイチャンでした。
パサパサに乾燥した夏の午後、MBSにて断るつもりで業者に会いました。ひとしきり人工芝を引っぺがした後、彼はDEEPな大阪弁で以下の趣旨の 発言をしました。”エコロジーの観点からしてもこんな美品を捨てるのは勿体無い、是非私にやらせて欲しい。” 彼の足許を見た私は”消費税コミコミ50万 円!!”で話をつけました。それでも彼には十分な勝算が溢れていたので一面半分の人工芝と砂を取る事も条件につけました。彼にオムニ移植の経験は無い。半 分ダメモトでしたが内装、カーペット設置よりは人工芝貼り付けの方がはるかに簡単だと思いました。
クラブは9月末日で閉鎖、3日以内に剥ぎ取り作業の約束でしたが大雨、台風が続いて砂が湿ると人工芝から分離できずにどうにも動きません。オニ イチャンはコート解体業者と喧嘩しながら10日かけてクレーン付き4トン車に角材通して強引に持ち上げて剥がしました。当然、人工芝の破れ、ほつれ、多発 しました。
どうなることかと思いましたが大阪、徳島を4トン車と軽四輪で4往復、人足多数動員して彼は1月かけてプラスチックの上に人工芝張り終えて砂を入れました。それはアッパレ、見事な仕事振りでした。
先日、帰省して確認しました。ブラックジャック様のツギハギですが全くプレーに支障ありません。10月初旬が好天ならば砂も乾いて剥ぎ取り作業も簡単で新品同様に仕上がったのにと悔やまれます。
ってな具合で誰が何と言おうと”オムニ再生は可能です!!!!”。
皆様、徳島に実物見学に来て下さい。
プラスチックマットの上に貼ったので、水掃けは抜群だしクッション性も上々です。緒方周先生に許して貰えるなら、敢えて“天然芝的な柔らかさ”と表現させて頂きます。

今回の再生の教訓を以下に列挙します。
1)オムニとは砂入り人工芝ではなく単なる”砂コート”である。
砂を留め置くために人工芝様マットが置いてあるだけである。   ちなみに砂は10トン以上一面に要りました。   またこの砂が大きすぎず小さすぎず特殊なサイズでかつ通常より重い!! 多分とても高価である。閉鎖するオムニがあれば砂だけ貰っとくてのは妙手です。
2)剥離、設置作業は十分な期間の余裕が必要である。特に前者!!
好天が3日以上続かないと砂は乾燥しない。従って人工芝から叩き落とせない。   従って地面から人工芝を剥離出来ない。無理にやるとウチの様になります。
3)持つべきは友人である。特殊技能を持つ人なら更に良し。  
4)オムニ再生はやはり7分山以上か?5分山では厳しいかも?
新品でも上モノ設置だけなら200万強で出来ます。   その差150万弱をどう評価するか?ですよね。当然新品のほうが美しく耐久性もあります。   コート使用頻度も大きな考慮点です。ウチはタカダカ年間200時間程度です。
5)人工芝の固定に通常使う両面テープ貼りよりビニールにノリで貼り付けたもののほうが剥がし易い。
6)クレーコートに両面テープで貼り付けただけの人工芝の剥離は極めて簡単。設置も同様である。
7)依頼主はコートに対して“プレーに支障が無い”レベルを持って満足すべきである。
美観を追求してはならない。しかしながら施工者のウデ次第で十分美しくなり得る。

後日談ですが内装屋が“闇のテニス屋”にこぼしたそうです。”乾いた時にコート見て35万と見積もった。大雨で目論見、段取り、大いに 狂って実質78万かかった。28万の大損じゃ!”  ちなみにこれには悪名高い本四連絡橋通過料金推定10万弱が含まれるようです。それでも彼は請求して 来ませんでした。意気に感じて幾ばくか上乗せしました。訳あり不可思議なのは外見だけでした。極めて有能な親方ぶりでした。それにつけても通常コート業者 の再生に対する消極姿勢を痛感しました。デフレ、エコロジー、少子化?のご時勢、“驕れる平家は久しからずや!!!残念!!!”って事になりませんよう に。
ここまで読んで件の内装屋に連絡を取りたくなった方はおられますか?近畿一円、中国、四国なら出かけてくれそうです。私が話をつけますよ。彼も懲りているので少しだけお値段は高くなりそうですが・・・・・・。



”中古オムニ激安移植に成功した希な一例”に一言(2005年度会誌より)

豊中市 江本医院 江本敬
(大阪府医師テニス協会 副会長)




高度成長期に、日本人は大切なものを見失ってしまいました。
ほとんどの国民が、モノ・カネ至上主義に陥るとともに、企業もまた、業績が上がりさえすれば何をしてもいいという姿勢が目立つようになりました。 次々と新しい製品を市場に出し、購買意欲を煽り続けています。また国民もそれに同調して、新製品を買い続けているかに見えます。携帯電話が良い例でしょ う。
しかし本当にそれで良いのでしょうか。最近立て続けに2例ありました。我が家のシステムキッチンの扉があちこち壊れてきたので、修理を依頼しましたが、「10年経っており、もう部品がないので直せません」といわれました。(某松下) 内視鏡もちょっと不具合が出たので修理を頼んだところ、「部品がですねぇ」 と言いつつ、すぐにパンフレットを持って来て新製品を勧めます。(某東芝)
どちらのケースでも私は怒り狂いました。だってそうでしょう。
「モノというのは10年経った頃から壊れ始めるもんでしょう。10年も経たずに壊れるようなものは、何をかいわんや。壊れたら新製品を買え、それ では企業の良心はどこにある? 修理に対応できるよう、部品の在庫をきちっと管理しておくのが当然ではないか」と言って。業者は苦心惨憺したようでした が、結局どちらも直してもらいました。
まったく新しい技術による新製品が出れば話は別ですが、目先を変えるだけのマイナーチェンジなんかは不要です。仕様の変更が必要になるのは、発 売後に色々と不具合がわかったり、また利用者から提案があるからでしょう。そんなことは発売前に製品を練りに練っておけば不要なことであって、他社に負け じと拙速に新製品を発売するから無駄なモデルチェンジが繰り返されるのです。
壊れたら、痛んだら新製品を、というのではなく、本当に良いものを大切に使う。環境保全をも考え合わせて、企業側はむろん我々消費者サイドも、ここらで考えを変える必要があると思いますがいかがでしょうか。そんなことも考えながら原先生の文章を読ませて頂きました。 
 



テニス雑感(2004年度会誌より)

豊中市 星野医院 星野 嘉明

もう半世紀も昔のことですが、昭和28年7月の全国高校庭球選手権大会で、私はフィリピンの選手と試合をしました。
シングルスの3回戦でデユンゴ選手と当たりました。同じ年齢で16歳のはずでしたが、向こうは180センチ以上の長身で、筋肉隆々、打球の強さが全く違っていて、返球するのに苦労したのを覚えています。0-6、1-6のスコアで簡単に負けました。
その年、フィリピンから4人の高校生が招待されて参加し、単複とも1位2位を独占するという結果でした。優勝したホセ選手も180センチ以上あ り、高校生離れしたテニスで、その翌年フィリピンのデ杯選手に選ばれました。デユンゴはそのホセに負けて2位になりましたが、私にはとても相手にならない 感じがしました。
ちなみに同じ年の全日本ジュニア選手権で、私はやはり3回戦で、その年準優勝した村上選手(神戸高校)に負けました。村上さんは背も高く、実力 的には私より大分上だったとは思いますが、打球の強さはデユンゴ選手のような感じではなく、実際スコアも1-6、6-8と粘ることができました。
若いときのその経験から、自分の技術はともかくとして、大きな体格の選手の力のテニスにはとてもかなわないと思うようになりました。
テニスの選手として、身長の高いほうが有利なのは明らかです。でも背が低くても、技術的にうまいテニスで一流になった人も大勢居られます。見るテ ニスとしては、ショットの正確さや、コートカバーリングの速さでポイントを取るほうが面白いし、参考になる点が多く見られます。高いところから打ち込む サービスと、力任せのショットで勝つ試合を見ても、テニスの面白みは少ないし、われわれの参考にはなりません。
でも、プロの世界では、強打がないとなかなか勝てないようです。190センチ以上の長身で、ビッグサーバーと呼ばれるような早いサーブの持ち主なら、ストロークが下手でもある程度勝てるようです。
現在の世界ATPランキング10位までの選手の身長を調べてみたら、180センチ未満の選手は、コリア(アルゼンチン)と、グロージャン(フラン ス)の二人だけで、どちらも175センチでした。ストロークが上手なので、サービスやボレーがあまり目立たないアガシ(アメリカ)でさえ180センチある そうです。俊敏な動きとストロークのよさで、一時ナンバーワンになったヒューイット(オーストラリア)も、コートの上ではあまり大きく見えませんが180 センチあります。
このような大きな体格の選手たちと戦わなければならない日本のプロの選手は、本当に大変だと思いますが、何とかがんばってほしいと思います。あ の素晴らしい成績を残したローズウォール(オーストラリア)などは、日本人と並んでもあまり目立たないような体格だったように思います。
日本でも背の高くないチャンピオンは何人もいましたが、世界に出てみていたらどうだったでしょうか。
その点、アマチュアのテニスでは体格の大きさはあまり有利には働かないように思えます。特にドクターのテニスでは、小さいチャンピオンが大勢おら れます。ショットの正確さや足の速さがものを言うのでしょうか。私たちの参考になるようなプレーもよく見せてもらえます。
しかし、我々の様な年になってきますと、もう技術の向上は望めません。体力や集中力の低下は当たり前です。勝敗も二の次になります。何よりも故障せずにテニスを続けられるかどうかが一番大事になります。
昨年 私は、膝、股関節、腰、胃腸と故障続きで、テニスの出来ない日が何十日もありました。これからは、故障が出て当然の年齢ですから、何とかその程度を軽く、テニスの出来る範囲に抑える方法を考えていかねばと 思っています。
 
「S32年10月28日 於九州大学テニスコート
 西日本医科大学体育大会にて団体2位になった大阪大学チーム
 後列左から但野先生(監督),福田,石神,星野 前列左から高井,望月」  

「S48年10月10日 於服部緑地テニスコート
 大阪府医師テニス大会 後姿ネット際:故小倉先生,後姿フォアーサイド 星野」



夕暮れ時のテニス(2004年度会誌より)

大正区 大阪府済生会泉尾病院内科 小西 正

 体から湯気を出し、眼鏡を曇らせ、滝のような汗をかく。この年になってテニス以外であんまりないなぁ、と仲間たちとの新年会での会話でした。その日も楽しく飲んで食べる一日でした。
学生の時は、ラケットを握ったこともありません。いつ頃からテニスを始めたのか?記憶はあいまいですが、医者になってしばらく経った頃から誘われ て、 月イチ程度のテニスをするようになっていたように思います。平成11年、45歳の時に、一念発起してテニス仲間の一人にスクールに連れて行ってもらいまし た。”動機が不純なほど長続きする”と言いながら始めたのが見事に実現しました。そうなんです!30代後半から太り始めその当時、体重は95㎏、脂肪肝で 酒は飲めなくなり、何を食べてもおいしくなくなっていました。テニスが上手くなりたいという純粋な動機ではなく、楽しく飲んで、おいしく食べる!そのつい でに減量もできれば・・・!!この不純な動機が、この5年間、スクール1回仲間と2回、週に計3回のテニスをさせているのは間違いありません。
環境にも恵まれていました。病院の隣にマリンパーク北村テニスコートがあります。数年前まで、大阪府医師テニス協会の岡征雄会長が同じ病院にお られ、その熱意と技術に引っ張って頂きました。同窓同期の原文雄君が練習に参加してくれたり、学生テニスの経験者でもない私を大阪府医師テニス大会に誘っ てくれたことも刺激になりました。そして何よりも、病院の良きテニス仲間に恵まれたことです。  *写真 「済生会泉尾病院のテニス仲間」
遠近両用眼鏡が必要になりかけた時からはじめて5年。今年50歳。一生を一日にあてはめると午後5時頃でしょうか、まさに夕暮れ時です。夕暮れ 時のテニス、これからも諸先輩方を見習い、夕暮れどきを有意義に送れるようにするつもりです。そして、暮れてからもナイターを頑張って行きたいと思ってい ます。
今日も、買ってきたCW-XのCONDITIONING WERE着て、寒さも何のその、仲間との練習です。隣のコートのどこかのコーチのスト ロークを見ながらイメージトレーニングし、あっそうか!と思いながら再開。うっ!と脇腹を痛めたり、うまく行かない事も多々ありますが走り続けます。
仕事も、清潔、誠実、精一杯、頑張っています。何処かで私を見かけた時は、よろしくお願いいたします。