会長挨拶

巻頭言 集めたものと与えたもの
 大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 寺田哲也                        (2024年度会誌巻頭言より)

巻頭言 テニスについて語るときに僕の語ること
 大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 寺田哲也                        (2023年度会誌巻頭言より)

巻頭言 テニスはWebでは出来ません
 大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 寺田哲也                        (2022年度会誌巻頭言より)

巻頭言 会長就任のご挨拶
 大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 寺田哲也                        (2021年度会誌巻頭言より)

巻頭言 When I’m sixty four
 大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 原文雄                        (2020年度会誌巻頭言より)

巻頭言 税金で作る光栄コートはジュニアのためにも ハードじゃなくてオムニを造ってあげてチョーダイ、ハード造るなら屋根をつけてね、ちゃんと塗り替えてね・・・・・・・
 大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 原文雄                        (2019年度会誌巻頭言より)

 巻頭言 2018年全日本医師テニス大会 様式を見直して大阪府が主管します。
   大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 原文雄                      (2018年度会誌巻頭言より)

 巻頭言 ヒモのようなモノ事件、嗚呼、八甲田山 大阪府医師テニス協会会長 原文雄
                      (2017年度会誌巻頭言より)


 巻頭言 Shot Clock大阪府医師テニス協会会長 原 文雄
                    (2016年度会誌巻頭言より)

 巻頭言 就任挨拶 大阪府医師テニス協会会長 原 文雄
                    (2015年度会誌巻頭言より)
 巻頭言 お読みくださる皆様へ 大阪府医師テニス協会会長 江本 敬
                    (2014年度会報巻頭言より)

 名称問題解決 大阪府医師テニス協会会長 江本 敬 
                    (2013年度会誌巻頭言より)

   『追悼 山村喜一先生』
 大天才 大阪府医師テニス協会会長 江本 敬 
                    (2012年度会誌巻頭言より)

 会長挨拶 大阪府医師テニス協会会長 江本 敬 
                    (2011年度会誌巻頭言より)

 省エネ物語 大阪府医師テニス協会会長 江本 敬 
                    (2010年度会誌巻頭言より)

 会長挨拶 大阪府医師テニス協会会長 江本 敬 
                    (2009年度会誌巻頭言より)

 会長就任の挨拶 大阪府医師テニス協会会長 江本 敬 
                        2008年度会誌巻頭言より)
 ラケット今昔 大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄  
                       2007年度会誌巻頭言より)
 審判(員)   大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄 
                       2006年度会誌巻頭言より)
 1A・4CON(ワンエー、フォーコン) 大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄
                     (2005年度会誌巻頭言より)
 会長挨拶   大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄
                    (2004年度会誌巻頭言より)
 大阪府医師テニス協会会報の発行を祝して 大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄
 
                     2003年度会誌巻頭言より)


< 2024年 巻 頭 言 > 
集めたものと与えたもの
大阪府医師テニス協会会長 (大阪府医師会テニス部部長)
     寺田 哲也(大阪医科大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科)

 

毎年12月に大学テニス部学生の追い出しの会があります。
大学テニス部の部長としてこれから社会にはばたく卒業生に、『下した選択が正しいかどうかは、その時に決まるのではなく、その後の自身の頑張りに依存するのだと思います』ということを話しています。どの施設で働くにしても自分自身の頑張りで何とでもなる、君たちには無限の可能性があるからそれぞれの立ち位置で頑張りやー、そんな感じのお話をします。
どの段階の人生を送っている人にたいしても、この言葉は正しいような気がしてなりません。極論すれば人生における選択は単なるスタートラインであって、その後の頑張りがすべてなのだと思うわけです。それぞれの若者が次のステージで頑張ってくれることを心から応援しています。
この医師テニス協会は年齢層が幅広く一番若い先生とご年配の先生とでは半世紀ほど年齢が離れていると思います。大学での医学教育を考えるに、教えるだけのひともいなければ教わるだけのひとも存在しません。学ぶことと教えることが同時に存在するわけです。それは年配者から若者への一方通行ではなく。若者から学ぶことが私たち年配者にも沢山存在していると思います。
集めたものと与えたもの、どちらが大切ですか?
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」。三浦綾子さんの小説「続氷点」の中の言葉になります。若い時はあまり気に留めていなかったこの文章ですが、最近ようやく意味が分かってきたような気がします。
与える=教育ではないものの、ひとに何かを伝承することは、その行為そのものがプライスレス。与えることの尊さをかみしめながら自身もいつまでも学びたいと思うわけです。
家族や職場の後輩に何を伝えるか、一人の人生として何を残すか。いろいろな次元がありますが、家族には、与えられるものをすべて与えたいと思いますよね。「愛情」はもちろんだけれど、それ以外にも、もっといろいろなことを伝えたいです。伝わることもあるだろうし、伝わらないこともあるでしょう。伝わらなくても、ずっと先になっていつか伝わることもあるかもしれません。
一生を終えて残ったものが「集めたもの」だけの人生では哀しいので「与えたもの」が多い人生にするべく、これからも頑張りたいものです。
「氷点」のこの言葉を読んで決意を新たにした次第です。


なんだか毎年、自分の考えを述べる自己満足的巻頭言になっているような気がしますが、ご容赦ください。
テニスを通じてのコミュニケーションを取ることができる日本の幸せをかみしめたいと思います。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。                             

  

< 2023年 巻 頭 言 > 
テニスについて語るときに僕の語ること
大阪府医師テニス協会会長 (大阪府医師会テニス部部長)
     寺田 哲也(大阪医科大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科)

昔と今 テーマ:劣化

 なかなかの良い題名だと思われませんか。
『走ることについて語るときに僕の語ること』という文春文庫から出ている村上春樹さんの回想録的エッセイの題名をテニスに当てはめてみました。はい、単なるぱくりです。
でも、さすが村上春樹さん、『走ることについて語るときに僕の語ること』。とても魅力的な題名です。ランニングをしている会員の先生も、そうでない先生も一度読んでみてください。お勧めいたします。
読書会というものに属していた、いや、いるのですが、その読書会で私が提示する予定だった本が、この『走ることについて語るときに僕の語ること』なのです。村上春樹さんは、知る人ぞ知るランナーフリークの作家です。
 提示する予定だったというのは、新型コロナウイルス感染症のために、3年ほど前から読書会が延期されているのです。この読書会というのは、10名くらいの読書好きの集まりで医師以外の方がほとんどの、大阪市内の百貨店の従業員の方が中心になって作られたサークルです。縁あって入れていただき、3か月に1回くらいの頻度で、平日の夜に大阪市内の飲食店で定例読書会が催されており、そこに参加していたわけです。
テーマ本を選定し、各メンバーがその本を読み、あの場面のこの表現は何が言いたかったのだろうとか、その本を選定した人が司会を務め、皆でその本の内容にうんちくを述べ合う自由気ままな性別、職種、年齢の違いにとらわれない楽しい会なのです。純文学あり、バイオレンスあり、恋愛ものあり、啓発本あり。課題本は自分以外の方の読書志向に依存するので、いろいろなジャンルの本を読めることになります。
『走ることについて語るときに僕の語ること』という題名について村上さんは次のように表現しています。“一部に過去に書いた文章を引用しているが、ほとんどは僕の「今の気持ち」をそのまま書き記した。走ることについて正直に書くことは、僕という人間について(ある程度)正直に書くことであった”。
私の巻頭言の題名『テニスについて語るときに僕の語ること』を村上春樹風にいうならば、“テニスについて正直に書くことは、僕という人間について(ある程度)正直に書くことであった”となりますが、もちろん私に文才は無く、僕という人間を晒して、どこをどう切っても恥ずかしいことと情けないことしか出てきませんので、自分を語ることは止めておくことにいたします(笑)。

 例えばテニス部の後輩たちに何かを伝えたい時、自分が大学のテニス部員だったはるか昔を思い起こし、今の若者に足りないことをついつい指摘してしまいます。テニスを題材に学生時代の自分自身を語るわけです。『僕が現役のころはなあ….。それに比べて今の若者は。』とか。。たいてい、過去の自分は美化され、思い出はとても綺麗で、たいした根拠もなく自分の頭の中に残っています。そのような昔話を聞かされる学生はたまったものではないと思います。ではどうすれば、人生の先輩である私たちが後輩たちに伝えたいことを伝えれるのでしょう。自身の経験に基づく伝えたいことは確かにあり、また伝えるべきなのに、世代を超えた若者に真意を伝えることは簡単ではないようです。

 人はそれぞれ違いますし、いいところも悪いところもあります。加えていうなら、ある人にとって良いと思われることが別の人からは悪いと思われることもあり、その逆もあるはずです。ある世代では良しとされていたことが別の世代ではそうでは無かったり、またその逆もあるということになります。

麻生太郎さんも言っています。『批判っていうのは、あーそういう批判があるのかなと聞いとけばよいのであって、でも一切聞こうとしない態度は間違い、でもそれを聞いて落ち込んでるのも間違い。はっきりしてるよ。人によって良いところも悪いところもあるし、また、ある人にとって良いところは他の人にとってそうじゃないかもしれない、人さまざまなんですから、そう、あまり気にしないことよ!』失言も多い人ですが、良いこともたまに言います、麻生さんという方。
どの時代の若者もそれぞれの悩みを抱えて一生懸命頑張っており、私たちも若者も同じく発展途上中のひとりの人間であることを理解すれば、押しつけがましい説教ではなく、同じ土俵に立つ者同士でのアドバイスになるのかもしれません。テニスを通じての異世代が同じ土俵でかわす交流、これが医師テニスなのだろうと思う次第です。
 “テニスについて正直に書き、僕という人間について正直に書くこと”は出来ませんが、『テニスについて語りながら僕の思うことを語る』ことで、巻頭言とさせていただきました。
 どうぞ、会員の皆様同士でテニスコートでの楽しい時間をお過ごしください。そしてテニスについて語るときにいろいろなことを語ってください。
 今年度もどうぞ宜しくお願い申し上げます。                               

 

< 2022年 巻 頭 言 > 
テニスはWebでは出来ません
大阪府医師テニス協会会長 (大阪府医師会テニス部部長)
     寺田 哲也(大阪医科大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科)

 これまでの日常が戻ってくれば良いなと思いながら新年を迎え、この会報を皆様にお届けできるのは、新年あけてひと月が経ったころだと思います。本年も皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
    
 さて昨今、学会、研究会、委員会などの多くはWebで行われていると思いますが、先生方はこの環境に慣れて来られましたでしょうか。私などは、現地で集合しての仕事よりもWebの方がやりやすく感じている程です。この環境に慣れたというより、必要なところのみWebで参加し、その他の時間は自分の自由意志で聴講する、そのような都合の良いストレスの少ない参加方法が染みついてきたようです。しかし、色々な分野の方との直接的交流を経るからこそ得れる知識や刺激があることは確かで、このままのWeb漬け孤立状態ではいけないなぁと感じています。
 
しかし、社会通念そのものというか、自分の考え方が新型コロナウイルス感染症により変わってしまい、今後は、この感染症が収束するかどうかではなく、自分自身の気持ちが変わるかどうかに依存しているように思います。わたしなどは感染症が収束してもこのWebスタイルを好ましく思い継続を希望してしまいそうです。日本人的内向き志向なのかもしれません。
 しかし、テニスはWebではできません。屋外で各季節の自然を体感しながら会員の皆様とともに汗を流す。この楽しき活動は永久不滅だと思われます。皆様、外向き志向で頑張りましょう! 

 本年は基本的に予定通りに大会運営を行う予定です。大阪府団体戦(1月)、大阪府ダブルス大会(4月)、近畿スポーツ予防医学研究会(近スポ)(5月)、近畿ダブルス大会(11月)と例年通りのフル企画で行います。 
奮ってご参加くださいまう様お願い申し上げます。                                

 

< 2021年 巻 頭 言 > 
会長就任のご挨拶
大阪府医師テニス協会会長 (大阪府医師会テニス部部長)
     寺田 哲也(大阪医科大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科)

有形無形のご指導をいただいている江本先生、原先生のようなカリスマ性とリーダーシップを兼ね備えた歴代会長の後任として、文字通り何も持たない私が、会長職を引き継がせていただくことになりました。どうぞ皆様よろしくお願い申し上げます。

大阪医科大学硬式庭球部に籍を置き、大学時代はクラブ活動のみに精を出していました。クレーコートで勝つためのテニス、伝統的なフォアハンドのみで戦うスタイルを諸先輩から徹底的に叩き込まれ、『バックハンド?なんですかそれ?打ち方知りません』そんな選手でした。すべてフォアハンドに回り込む。回り込み切れず自分の背中をボールが通過しても、先輩からかけていただける言葉は、‘ナイスラン!ナイス回り込み!’。自分自身が先輩となり、後輩を指導する時にも、自分が教わった通りの指導を後輩に行い、下半身強化とフォアハンドのみ練習する。その結果強くなった人もいれば、そのスタイルに馴染めず実力を開花することが出来なかった後輩もいると思います。馴染めなかった後輩諸君、すいません。多様性がなかったなあ、と30年以上経った今、反省している次第です。その後時代は流れ、現在の母校の後輩たちはバックハンドを駆使した自由なテニスを謳歌しており、多様性は自然に育つものなのかと安心して見守っています。

『若手医師への世代交代』

大阪府医師会テニス部の存在意義は、若手にもシニアにも楽しいと思っていただけるイベント開催にあると思っています。
1月下旬に開催している団体戦には数多くの若い先生が参加してくれるものの、その他の開催大会参加者の年齢層は比較的高く、私などがまだ若手と言われる珍現象が起こっています。スーパーマンのようにお元気な江本先生、原先生といえども、そして私も510年後には、今ほど元気にテニスが出来るわけでは無いかもしれません。世代交代は自然になされるものですが、世代交代のスピードは私たちの努力によって加速できるはずです。若手の先生へのプロパガンダを継続していきたいと思います。
学生時代のヒエラルキーを引きずらないことが、世代が混在する大阪府医師会テニス部の組織構築に必要です。学生時代に絡まなかった親子ほど世代の離れた先輩後輩も、学生時代の名選手も、学生時代には名選手で無かった人も同じ目線でテニスという競技を共有できる組織でありたいと思います。

医師という団体のテニスクラブである以上、新型コロナウイルス感染症の動向とクラブ活動を関連付けないわけにはいきません。中止を余儀なくされた大会も多く、今後の大会運営も流動的要素は沢山あります。でも、いつか落ち着き収束を向かえるはずです。静かに、その時を待ちたいと思います。

 < 2020年 巻 頭 言 >
 When I’m sixty four
    大阪府医師テニス協会会長 (大阪府医師会テニス部部長)
     原 文雄(池田市 文月会 原医院)







←2018年ふるさと納税でGetしたよ!!

 シニア割引を使って映画“イエスタデイ”を観ました。“もしも自分以外がthe beatlesを知らない世界になってしまっていたら???”という設定で、音楽、夢、友情が彼らの名曲に彩られて展開していくドラマでした。最終盤の子供達と歌うob-ra-di, ob-ra-daで涙が出ました。音楽モノという枠を外しても、映画として秀作だと思いました。

 高校1 年の春にLPの“abbey road”を友人から借りました。感激とか衝撃とか表現できる音楽素養も無いのですが“スッゲー!! ”と強く思った片田舎のギター小僧は、ナケナシの貯金を握ってレコード屋に走りました。カセットデッキも普及していない時代で、文字通り擦り減るほどLPを聞きました。それ以降も小遣いを貯めては“let it be” “ white album” “ surgent pepper’s lonely hearts club band”と順不同に買い足して、宝物が増えて行きました。そんな楽曲の中でも sgt peppers……B面の when I’m sixty four が特に好きでした。陽気だけど少し淋し気な歌詞もメロディーも、トボけた感を容れたPaulさんの歌声も印象的でした。不思議ですが、10代で覚えた曲は今でも歌えます。脳の情報は当時のままなのに、私も昨年64歳になりました。
 When I get older losing my hair, many years from now
のハズだったのに……髪は確かに薄くなったけど、とっても不思議な気分です。

 改築前の有明コロシアムで試合をした事が1回だけあります。デ杯、フェド杯、ATP500大会などなどでも
使われた、あの有明テニスの森公園、旧センターコートです。テニス人生の中でもかなりの事件ですが、私の力とは全く無関係です。全日本医師テニス大会1999年は東京都主管で年齢無差別のオープンクラス(当時の呼称はチャンピオンクラス)が初めて設けられました。怪我続きの厄年明けからテニスを再開して間もなかった私も、恐る恐る参戦しました。シングルス1 回戦の相手は某大学内科学教授でベテランJOP大会の常連でした。医師会での実績も十分で、私よりも遥かに格上でした。この方の年齢が64歳!!! 今となってはオープンクラスの大御所出場は珍しくありませんが、当時新設の年齢無差別に出てくるとは何たる自信か……と気遅れしました。しかも主管が教授の肩書と心意気に忖度した結果、与えられたのがセンターコートでした。屋根も閉まって打球音も心地良く、日本風にツルツルハードサーフェイスだった記憶が有ります。役員を従えて登場した長身の教授は“偉い人感”満載でした。練習の時に繰り出すストロークもサーブも威力満点で、私は苦戦あるいは敗戦を覚悟しました。ところがところが…

 試合が始まると、2人共に普通に打ち合ってるのに教授のショットが少しづつ明確にアウトします。球がこちらのコートに収まりません。6ゲーム先取は、汗をかく前にあっけなく終わってしまいました。何が起こったか理解できなかった私に“弾かれたよ… 20歳違うとさすがに厳しい”とネット越しに握手しながら教授が呟かれました。技術以前に動態視力や敏捷性、反応の速さなどが根本的に違っていた様子でした。その後のラウンドも似た年代の有名人に競り勝って、少しだけ自信が戻って来ましたが、QF ?で優勝した角辻格選手にサクっと負けました。この試合は年齢差以前に、如何ともし難い基本的な実力差を感じました。

 東京オリンピックに向けて有明コロシアムとテニスの森公園が新装開店したニュースを聞きました。現在の
自分の年齢が当時の教授と重なって驚愕しました。映画で沁み出した50年前の思い出と、20年前の有明の記憶が混じり合ってメマイがしました。長い間、落ち着きなく走って来ましたが、64歳まで到着した事実を、初めて我が事として受け止めました。公的機関や普通の企業なら定年だし、健康寿命も先が見えて来ました。そうと分って、お尻に火がつきました。もっともっと焦って焦って、生きなくちゃ!! いろんな行事を詰め込んで動ける内に動いちゃえ!! という以前からの習性を再確認しました。やっぱソコに行きつくのね……と家族から嫌がられています。

 大阪市旭区の伊藤健吾先生ご夫妻から大阪府医師テニス協会の実務作業を原夫婦が引き継いだのが2001年頃でした。手書きやガリ版印刷だった名簿、書類、葉書をパソコン処理に代えて、その後にホームページを立ち上げて管理していったのは、全て原統子理事の業績です。私は各大会でのコート管理、黒字捻出、協会留保金積み立てに専念しました。ずっとウチの家内作業だった大阪府事務局業務も伊藤摂子さんという強力助っ人を得て、委託が軌道に乗りました。これでヤレヤレ安心できると思っていたら、日本医師テニス協会から雑用係の筆頭である理事長職を拝命しました。今までとは違った種類の業務が多くなりそうです。大阪府は人材も豊富なので、私は退任して寺田哲也先生に後継の会長職をお願いしました。会員の皆様、寺田新会長以下、大阪府医師テニス協会に変わらぬご支持をお願い申し上げます。

  When I am sixty four      the beatles

  When I get older losing my hair, many years from now.
  Will you still be sending me a valentine, birthday greetings bottle of wine
  If I’d been out till quarter to three, would you lock the door?
  Will still need me, will still feed me, when I am sixty-four?

  You’ll be older too
  And if you say the word, I could stay with you.

  中略

  Every summer we rent a cottage in the Isles of Wight , if it’s not too dear.
  We shall scrimp and save
  Grandchildren on your knee, Vera, Chuck and Dave


 去年は、共に嫁いでいった長女が女児を、次女が男児を出産して孫が2人出来ました。
 Chuckは除いて、私はその2人のbabyを心の中でコッソリとVeraとDaveと呼んでいます。


   < 2019年 巻 頭 言 >
税金で造る公営コートはジュニアのためにもハードじゃなくてオムニを造ってあげてチョーダイ、
ハード作るなら屋根を付けてね、ちゃんと塗り替えてね……

大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長)
原 文雄(池田市 文月会 原医院)
    
 我ながらまとまりの無い表題となりましたがご容赦下さい。日本テニス協会(JTA)の既定路線として今後の公営コートはオムニを廃してハードを造っていくという方針を聞きました。実際、北海道や北陸の新設コートがハードになっている様子です。オムニとは某社の登録商標で、正確には砂入り人工芝コートですが、ここでは日本ガラパゴス色を出すためにアエて“オムニ”という呼称を採用します。オムニの語源は英語の“全ての…”という所から出ていますが、韓国語の音では、日本語の“母親”の方言に相当するそうです。

 1、世界基準はハードである。ATPやWTAの試合はハードコートが主体で残りはクレーと天然芝である。
オムニでの試合は無い。
 2、日本の若い選手が世界に出て行った時に勝てないのは、ハードコートで育っていないからである。ハードでは球がスピンをかけた分だけしっかりと弾むしスライスは滑る。それに引き換えオムニでは弾まないし滑らないので強い球を打つ習慣が身に付かない。
 3、当初、世界で勝てない日本の選手も2、3年間ツアーのハードコートで揉まれてる内に徐々に勝てる様に
なる。だから幼少期からハードでテニスをする機会を増やすべきである。
 4、オムニを減らしてハードコートを増やして行く事が日本全体のテニスのレベルアップにつながる。

というのがJTAの元ツアープロ達を中心とした論旨らしいです。また欧州や南米などのクレーや一部の人工クレーコートは、良く弾むし滑るので日本のオムニとは別物との由です。
 
 しかし上記は世界に出て行く選手達の話ですね。世界に出てある程度勝負できる現役男性選手が20−30人くらい?? 国内でも男子と練習出来るので優位な環境にある女性選手がそれの倍くらい?? 両方合わせて最大100人くらい?? 志と可能性はあるジュニアもそれの3倍くらいと大甘に計算しても日本で合計400人くらいのお話ですね。
 
 ひょっとして私が大間違いをしていて、この数字が10倍だったと仮定したら、世界に出て行く選手達の数は超甘の4000人となります。テニスプレーヤーで世界に行かない人、行けない人、行けるはずも無い人、行く年代を外れた人…を仮に一般人と呼びます。とある統計では一般人が400万人強とも言われていますので、世界に出る選手と一般人との比率はザックリと大甘で1万人に1人くらい、超甘で1000人に1人…という計算も出来ます。
 
 一般人にもいろんな人が居ますが、ハードコート大好きというプレーヤーは少数派です。特に日本にハードが普及しかけた1980年代からの歴史を知る古参者は足も球もツルツル滑る悪いイメージを持っています。屋外ハードの日本での耐用年数は5年程度との由です。強烈な日光で劣化して大気汚染が滲み着いて摩耗して苔も生えた結果、日本特有のツルツルハードが広がっていきました。肉眼的に見えない場合でも日本では“苔”の影響が大きいと私は思っています。定期的に塗り替えて、初期の性能が維持できている場所は稀でした。最近新設されている公営ハードは定期的な塗り替えは予算計上されているのでしょうか?? 予算の裏付けが無ければツルツルの歴史は繰り返して行きそうです。
 
 それに比べるとオムニはラクチンです。長年経っても目詰まりで排水性が落ちる程度で、多少の雨なら……
その気になれば…本降りの雨の真最中でもテニスできますし、私はやっています。人工芝が部分摩耗しても姑息的なツギハギ修復も可能だし、ボールもハードの3倍くらい長持ちするし、一般人には有り難い存在です。
ハードなら表面が湿る程度の小雨でも足元が危険になりますし、降雨後も表面が乾くまで相当の時間を要します。正確な数字が示せなくて申し訳ありませんが、大阪では1年間365日の内で雨と雪の為に全くテニスが出来ない日数はオムニコートで20日程度だと実感しています。ハードコートなら少な目に見積もっても70日程度に雨雪の影響が出そうです。太平洋側ならば大阪と似た範囲内でしょうが、根雪の残る日本海側や北日本では更に大きな差になりそうです。オムニならテニス出来てハードならテニス出来ないこの年間最低50日前後の差は、一般人には大きいですよね! ! ! とても余談になりますが、いつでもテニスが出来るプロ、元プロ達は雨や雪の中で屋外のテニスは避けます。室内練習場に移動するか、基礎トレーニングに切り替えるだけですね。仕事や勉強の合間の希少な時間にガツガツとテニスする一般人とは発想が異なります。
 
 着衣に例えればオムニは普段着の様な位置づけです。雨や雪、汚れや摩耗も気にせずに、子供でも大人でもガンガン使えます。ハードは少しオシャレ着ですね。外国の人も集まって見栄えも考慮する場所で着用しま
す。レッドクレーは正式の訪問着、天然芝は燕尾服の一張羅ですね。どちらも人生の晴れ舞台で奮発して装います。当然ながら全ての服装を経験しておく事は大切です。しかし平時は悪天候でもそのまま外出できる普段着のオムニが一番気楽です。
 
 テニスプレーヤーの中で1万人に1人あるいは1000人に1人程度の海外で戦うプロを育成するためにJTAがオムニを廃して選手用のハードを造る…というのは理屈が通ると思います。しかし公営コートに関しては日本国や地方自治体の税金で造る訳ですから、最低限は一般人の意向も考慮して欲しいと思います。ハードを造るなら雨や雪での使用時間の担保のために屋根を付けて欲しいですね。ツルツルは危険なので数年に一度は塗り替えて欲しいと思います。それが出来ないのであれば現状通りオムニにしておいて一般人の裾野を広げて、サーフェイスを超越した天才が生まれてくる確率を増やしたほうが世界での勝機が生まれそうです。
 
 それと前述のJTAの見解も個人的には、1) 以外には賛同できません。
 2) ハードは球が弾むしフットワークも全く異なるから、弾まないオムニでやるテニスとは別の種類の競技に
等しいと多くの日本のプロ達が言いますし、当方も頭で理解は出来ます。しかしながら申し訳無いけれどサー
フェイスを持ち出すのは、勝てない言い訳の様に聞こえて歯切れ悪く感じてしまいます。
毎年の全年代の世界中各国の一番手ばかりが集まるのですから簡単に勝てるはずはありません。田舎の天才が大都会に出たら普通だった…ってのは良くある事です。地理や体格など諸般の状況環境を考慮すれば、むしろ日本の皆さん、十分過ぎるほど頑張っていると思います。またハードで育つと早いタイミングで打つハードコーター、クレーで育つとコートの後方からしっかりとスピンをかけるクレーコーターになるとも聞きます。
ここで冒頭の前振りを使いますが、オムニで育つと“オカン”になってしまうそうです。しかしながら普通にグ
ランドスラムの1回戦辺りをテレビの放映画面で見る範囲内では、全仏のクレーでも全豪全米のハードでも漏
れなく全員バックコートでも前後の動きを入れてオールラウンドにやっています。
 
 逆に言えば最低限オールラウンドにプレー出来ないとATP、WTAの100位以内に入れないって事だと思います。コテコテのクレーコーターって純粋のネットプレーヤーと同時期くらい昔に絶滅した様に思えます。いろんなサーフェイスに対する対応能も全体的に上がっているし、対応能が高い選手が生き残っているのだと思います。

 3) 2−3年かけて世界基準の相手と日常的に練習して試合している内にそれなりのレベルに追いついて来るというのが実情では無いでしょうか??
一番大切なのは練習、試合相手の技量であって、コートサーフェイスはそれに比べると軽微な問題の様に思えます。

 テニスという競技はスポンサー契約などを除けば、試合賞金だけで食べて行けるのは、男女共に世界中で100人程度しか居ないと聞きます。グランドスラムの128ドローにストレートインするレベルだけが賞金プロ生活が成り立つ酷な世界との由です。ある程度以上の競技人口を有する中では、フットボール類、ゴルフ、野球、自転車、バスケットボール……などと比べても地球上で男女100人だけってのは確率的に極めて低い成功率ですね。極悪、最低と言っても良い数字です。実際の所、日本のトップでも“世界の100位以内を目指す…”と堂々と言える人数は限られています。大切なのは裾野を広げる事、自分より強い相手と出来るだけ長い時間、日常的に練習する事だと思います。当然ながら強くなるに従って、自分より強い選手の数は減ってきます。そのレベルなりでサーフェイスなどは選ばずに、良い相手と練習して欲しいと思います。

 1970年代までは太平洋側の気候で日本の“土”の屋外コートでは年間で雨や雪のために100日くらいはテニスが出来ませんでした。感覚としてテニス出来るのは週7日の内で5日間程度でした。その後ハードが、次にオムニが造られてどんどんプレー出来る日数が増えて行きました。その結果テニス愛好家の人口は増えて行ったし、全体としての技量も上がっています。いつでもどんな時でもテニス出来る…という環境が最も大切です。オムニは“雨でもテニスが出来る”だけの凡庸なコートです。その凡庸さこそが、雨の多いガラパゴス日本のテニス界の裾野拡大、ひいては全体のレベルアップに繋がってきたし、これからも繋がって行くと私は思っています。

 JTA競技部門の元日本トップ選手達にお願いです。ジュニアを含めた日本全体のレベルアップの為には裾野の拡大も大切です。日本国や地方自治体の税金を使った“公営コート”はハードでは無くてオムニを造ってあげて下さい。

 ハード造るなら、いつでもテニスが出来る様に屋根をつけてあげて下さい。数年に一度ちゃんと塗り替えて下さいね。塗り替える予算を取り付けて下さいね。

 税金で造らない個人設立運営のコートと、一般人が使用しない選手専用コートは、当然ながらこの議論外です。日本のトップ達には、サーフェイスの種類を問わないオールラウンドなプロに育って頂きたいと思います。               
                             お ま け
 大坂なおみ選手が強いのはハードで育った事が一番の理由では無いと思っています。米国内ではコートはほぼハード一択でしょうし、ハードで育ったけれど日の目を見なかった選手は星の数ほど居ます。ジュニアの試合は出ずに14歳からITFに出ていたのは有名ですが、15歳になるまで全く勝てなかったという1歳年上の“まりお姉ちゃん”と練習していたのが大きいと思います。自分より弱かった妹と練習していた“大坂まり選手”はWTAランキング自己最高位289位です。そーいえばマレー家やズべレフ家は弟が、ウイリアムズ家も妹が強いですよね。伸び盛りの時に、自分より強い相手と日常的に練習する、試合するというのがとっても大切です。内輪の話ですが、全日本レベルの選手の中にも、医師会のレジェンド達にも“お兄ちゃんがテニスをやっていた、負けず嫌いの次男坊、三男坊”が沢山居ります。スポーツも音楽、語学などと同じですね。かなりな幼少時に“触れておく”“興味を持って接しておく”という経験が、後の成功につながりそうです。


     < 2018年 巻 頭 言 >
2018年全日本医師テニス大会 様式を見直して大阪府が主管します
大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長)
          原 文雄(池田市 文月会 原医院)

 平素より会員各位には大阪府医師テニス協会が主催する団体戦とダブルス大会、また近畿圏で持ち回り開催するシングルス、ダブルス大会、スポーツ予防医学研究会へのご支持を頂き大阪府責任者として篤く御礼申し上げます。

 個人的には日本医師テニス協会(日医テニス協)という組織の役員も兼ねており、全日本医師テニス大会の運営にも10年来関わっております。全日本医師大会は主催者である日医テニス協が各都道府県の医師テニス協会に主管を依頼して、受諾を得る手続きを経て毎年、全国各地で開催されています。2015年の日医テニス協役員改選を機に、全日本大会設定係という最も好ましくないおハチが断り切れない状況になりました。現理事長 大石基夫先生と一緒に多くの府県に2018年以降の主管をお願いして廻りましたが、例外無く“受諾不能”と断られました。大会を開催するコートは有るけれども対応する医師の人員不足が第一の理由です。テニス競技だけなら良いが全国から集まる参加者のご接待は重荷である事も大きな理由です。“全日本医師主管は人手と労力がタイヘン…”というイメージが完成しています。逆に私が主管を頼まれたら…即座に断ります。主管自体は全くのボランティア行為であり、多くの時間を失いますが、得るモノはお世話になったテニスという競技への恩返し程度です。前回の大阪大会も府下の知恵を結集して省力化に努めましたが、参加者の幅広い要望への対応が本当にタイヘンでした。上手く行って当たり前、不都合が有ると責任を問われます。

 試合中のポイント間での意図的に見える遅延行為で周囲の心象を害する常習者が居ました。“あの様な規則違反行為を主管者が罰しないとは何事か! ! ”と対戦相手に怒られました。他にも学生時代の医学部大会方式でルール、マナーに問題のある若い選手も居ました。事前に配置済の審判の裁量の範囲内であり、主管者としての関与の難しさを感じました。テニス大会の主管くらいは朝飯前のオヤスイ御用ですが、多様な参加者の不測の事態に対応する心労は二度と味わいたく無い、苦味がありました。

 振り返れば前執行部までは一つの大会に対して数年以上に渡る入念かつ周到な根回しを以て、何とか主管受諾を取り付けておられました。一般の参加者には何事も無く平然と開催されているかの様に見える大会ですが、実の所は極めて苦しい台所で、毎年存亡の危機に瀕しながら綱渡りで命脈をつないでいるのです。多くのメンバーが入れ替わった現執行部に年単位の余裕はありません。前振り無しで正面から依頼しても断られるのも当然です。

 2016年秋の広報期限も迫り、全ての依頼先から断られ、2018年大会は開催中断も選択肢に入りました。あるいは2 年毎、4 年毎開催への変更も真剣に考慮しました。しかしながら4 年に一度のオリンピック方式を採用しても、現行の“過大な人手と労力”という部分を改善しない限り事態の先送りにしか過ぎません。数日かけて思案を重ねる内に考えが固まりました。「自分が頼まれてイヤなものを他人様に押し付けてはいけない! 好んで気軽に受けて頂ける形に変えてから他の府県に依頼しよう! ! 」 と決めました。前回の2013年から中4年ですが2018年10月6 日(土)・7 日(日)・8 日(祝)に大阪府大正区北村コートで全日本医師大会を大阪府が主管します。2013年の大阪大会では費用アラカルト方式として懇親会などの競技以外を切り離して最低5000円からの参加費を導入しました。その他、要項、エントリー方式、旅行社との連携などの用紙、様式が2017年の岡山大会まで踏襲されており嬉しく思っています。2018年は次年度以降に引き渡せる様に、更なる簡略化、外注方式の徹底に努めます。

 以下に春先に発送する大会要項の下敷きを示します。主管医師会の人的労力負担を軽減する・・・・その結果、主管を受けて頂ける都道府県が増えてくる・・・その結果、全日本医師大会が今後も存続できる・・・・という事を主眼として設定します。繰り返しの確認になりますが、現状の様式では自発的に主管を受けて頂ける都道府県は当時皆無でした。ご了承、何卒よろしくお願い致します。

 1.遠路はるばる旅行してチョットしかテニスできないという多くの参加者の不満に応えます。
旧来は予選リーグなど設定して公平化に努めていましたが、どうしても歪みは発生してしまいますし、主管側のコート管理も大変です。大阪では本戦を全部、単純なノックアウトトーナメントにして早く終わらせます。その代わりに試合後はコートを参加者で自由に使って頂きます。土曜日12時開始の混合は15時終了、日曜日9 時開始の複は13時終了を目指します。17時までの余った時間を多く取って、参加者が使える貸出コートにします。お好み試合斡旋担当者を適当数配置して、コートの中で懇親を深めて頂けるように手配します。

 2.貸出コートを最大限有効に使って頂くために参加者数を先着順として制限します。
1 面につき複は8 ペア、単は8 人までとする予定です。今回は25面有りますので複は最大25× 8 × 2 =400人となります。男女オープンクラスは制限人数内で別枠を設ける可能性があります。単複の参加料も入念に計算して出来るだけ安価に設定します。

 3.各クラスのドロー数を極力、均一化します。その上で各クラス8 ドロー数以上を原則とします。
男子を例に取ると、5 歳刻みABカテゴリーで参加数が8 ドローに満たない場合は隣接するクラスと合併します。

 4.主管者大阪府医師テニス協会主催の懇親会は行いません。
代わりに希望者に対しては、委託旅行社主催の食事会を開催します。これに伴い会員総会は試合終了後の北村コート内で行う予定です。

 5.ドロー、OP(試合順番)は日本医師テニス協会ホームページ上で発表します。
紙ベースによるドロー、試合順番予定表を廃止します。電子ベースの採用によりエントリー受付開始および締め切り期限を出来るだけ試合当日に近くなる様に遅らせます。数月単位での先の予定の立ち辛い若い方にも配慮します。

 6.通信、事務作業は外部専門家と委託契約します。
ドロー、OP作成も大筋のみ指定して詳細は外部委託します。

 7.宿泊、交通、弁当などは前回大阪大会と同様の外部旅行社に委託します。

 8.規則は一般のテニス大会と同じ様に運用します。
特にtime violation, unsportsmanlike conduct, に関しては ルールブックに準じて適応します。

 9.スポーツ予防医学研究会講座の開催と試合当日のコート管理を主管者の主な作業とします。
 以上を本年度の大阪府医師テニス協会の巻頭言とします。いくら省力化しても大阪府理事各位にはご面倒をお掛けする事になります。何卒ご協力お願い申し上げます。会員各位には全日本医師大会の顔つなぎとして積極的なご参戦をお願い致します。

                              あ と が き
 とか何とか考えてる内にATP tour final next generation が始まりました。
 見てて気持ち良いです。爽快です。チャッチャカと試合が進みます。レット無し、ノーアド、4 ゲーム先取3 − 3 タイブレの5セットマッチとかの規則下でやってます。さすがに若いトッププロは何事も無かったかの様に柔軟に対応しています。
 最大の功績はやはり shot clock ですね。Ball deadになると大きなボードに自動的に25秒の時計表示が出て、毎秒減って行きます。秒表示がゼロになる前にサーブを放たないとポイントを失います。普段のツアーの様に選手がサーブ前に延々ボールをトントンついてる画像や、ご丁寧に全身の汗をぬぐっている画像など見なくて済むようになりました。集中するフリをしてサーブやレシーブに入るタイミングをずらすなどの行為はできません。大事なポイント前後でのあざとい心理戦は見て楽しい場合も有るし、見なくてもテニスの本質とは関連しないと思います。
 ぼちぼち本当にテニスという競技も時代に応じた変化が必要になりました。頂上が変わればいつの日か裾
野も変わってきます。

 

<2017年巻頭言>ヒモのようなモノ事件、嗚呼、八甲田山

……………………大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長)

                              原 文雄池田市 文月会 原医院)

 母校テニス部の監督を拝命しています。個々の現役部員達は皆さん良い子ですが、たまに見に行くといろんな非効率性が目について小言が出そうになります。テニスを語るとウザいと嫌われそうなので、今年も柔らかい小噺にしてみます。

 ここ数年の正月は北海道のルスツスキー場で迎えています。年末までに確実で十分な積雪がある事、新千歳―大阪空港間の遅い便を取れば最終日も正午過ぎまで滑れる事が魅力です。最近の潮流ですが、スキー場全体は管理区域と非管理区域と滑走禁止区域の3つに区分されています。管理区域は旧来でいうゲレンデです。怪我しても無料でレスキューが拾ってくれます。滑走禁止区域は滑って行ったら、人の足では帰って来られない所です。確実に遭難する場所ですね。非管理区域とは主に林の中です。自分の判断と力量で滑って下さい。怪我や遭難して救護隊が出た場合は実費を請求します・・・・と書いてあります。こういう場所が増えてくれて有り難い限りです。ほぼ全山を満喫できるようになりました。昔は林の中も必死で“滑走禁止”って書いてありました。未圧雪、新雪を楽しみたい外国人達が非常に多いので、彼らを止める事が出来なくて、経営側が禁止を諦めた結果のなし崩し策のような気がしています。北米などの海外リゾートを見習ったとは思えない所が少し寂しくもあります。

 四国徳島の生まれ育ちなので、大学で大阪に来て1年生の冬に初めてスキーをしました。運悪く最初の指導者は同級生でスキー部のアルペンレーサーでした。ボーゲンも出来ない内から“曲がるな!止まるな!!まっすぐ突っ込め!!!”とだけ教えられました。“危なくなったら勝手に曲がる!!”というのが彼の理論でした。自分の限界スピードに慣れなさいというのが彼の本意だった事は後日分かりましたが、曲がる度に怖い思いをして寿命が随分と縮みました。腓骨骨折も含めて何度も文字通り痛い目に会いましたが、社会人になる頃にはどんなに急な斜面でも躊躇せずに素早く滑り降りる習慣がつきました。しかしながら子供の頃からは体が慣れ親しんで無い偽物感、ギコチナサを今でも引きずっています。飛ばしていても“何かが違うな・・間違ってるな、下手やな・・・”と常に感じています。そんな私ですが不思議な事に新雪、深雪は別人の様に楽に滑れます。多分、スキー板をちゃんと踏み越せなくて先端を押さえ込めないのが、逆に浮力として作用してるのかな??と自分では分析しています。結果として厳冬の未圧雪スキー場非管理区域は私にとっては天国です。 

 我が家は嫁さんと娘2人姉妹の4人家族です。伊丹空港が近いので子供達が学校の春休みしか行けない頃は東北のスキー場を愛用していました。3月下旬でも雪がある事、朝イチで飛べば昼から滑れる事・・最終日も昼まで滑れる事・・というのが理由でした。蔵王や安比は普通でしたが、田沢湖や大鰐温泉となると関西人は珍獣扱いでした。Smokedたくわんである“いぶりがっこ”にも慣れるほど東北に通った最後に、山スキーで有名な八甲田スキー場に行きました。前振りが長くなりましたが、次からが本編です。

 インターネットも未熟な時代だったので、情報も無いままに興味本位で八甲田スキー場34日ツアーを買いました。長女が中学生、次女が小学校の中学年でした。八甲田山はスリ鉢を伏せた様な丸い山で、その裾野斜面のごく一部にゴンドラ一機とリフト二機の小さな八甲田スキー場がへばり付いていました。到着当日は晴天で午後だけで八甲田スキー場には飽きてしましました。折角だから翌日は山スキーをしたいと、宿泊先の山荘亭主にお願いしました。宿には踵部分の固定を解除してノルディック風にも可変式のビンディングを付けたスキー板や、当時まだ珍しかったスノーシューなどが並んでいました。子供達も小さく、登坂用具無し、ゲレンデスキー用具しか持っていない・・・と不安を漏らした所、血色抜群のご亭主は満面の笑顔で自信満々に答えました。“大丈夫です!!ガイドがご家族の前後に付いて登りはラッセルします。板に関して奥様は自前分、ご主人が子供さんも含めて3人分を持ちます。ヒモのようなモノを用意してありますので、背負って運びます!!” 宿の備品を見た私は持つ、運ぶ、背負う・・・等のkey wordから、我々レジャースキーヤーには未知の、極めて特殊な運搬用具を想像しました。

 翌朝、山スキー当日はガスも立ち込めて、結構な吹雪でした。三合目がゴンドラ最終駅でそれより上は山頂まで自力での長い登りです。客は30人程度、ガイドは8人でそのうち2人が我が家4人の担当です。朝一番にゴンドラ駅を降りると、慣れた客達とガイド達はサッサと自分のスキー板やスノーボードを専用のバックパックに固定して、スノーシューを履いて登りだしました。一部は先ほどの踵固定解除式ビンディングスキーの底にアザラシ皮でできた滑り止めを付けて歩きだしました。私たちの担当は“今日はそよ風も吹いて絶好のスキー日和です”と言いました。“この吹雪のどこがそよ風やねん!!”とは思いましたが、言葉は飲み込みました。人間は違いを認め合う事が肝要と自分に言い聞かせました。

 “さあ、これで板を背負って頂きます”と言って取り出した用具は山スキー専門の“特殊なヒモのようなモノ”のはずでした。実物を見てビックリ、驚愕、茫然、失望と感覚は変わって行きました。“チャウチャウ!!日本語、間違えてる!!人間として違いが認められない!!それば断じて”ヒモのようなモノ“では無い!!それは単なるヒモや!!!!と関西弁でツッコみました。宿の亭主を恨みましたが、氷点下烈風の雪原では後の祭りでした。

かくして嫁さんは1人分2本、私はゴルゴダの丘を歩くキリスト様風、あるいは八ツ墓村風に3人分6本のスキー板を背中にヒモのようなヒモで縛り付けられました。先行ガイドがラッセルした足跡を普通のスキー靴で長女、次女、嫁さん、私、後方ガイドの順にツボ足します。時折先行と後方のガイドが交代しながら永遠とも思える長い時間登りました。途中本物のクレバスも見えたのは唯一の良い思い出です。やはりスキー板6本は重い、ヒモが食い込んむ、標高は上がる、気温は下がる、呼吸は苦しい。シベリア抑留ってこんな感じ???とも思いました。当初はキャッキャ言いながら樹氷を楽しんで遠足気分だった子供達も、7合目くらいから黙り込みました。その状況下でも前進するしか選択肢が無い事を理解した、幼い彼女達を褒めてやりたいと今は思っています。

 皆から随分と遅れて山頂の避難小屋に辿り着いたのは正午をかなり過ぎていました。

小屋内はどこから集まったか??いつ追い抜かれたのか??という程の人数が休息を取っていました。ガイドに急かされて息も乱れたまま、スキーを履きます。間もなくして広大な白銀の斜面が見えた時は、景色の雄大さに感動しました。先行する各人が思い思いのシュプールを描く様は、大海原で遊ぶイルカの群れを連想させました。いろいろあったが来て良かった・・素晴らしい・・・この時は登りの苦労が吹き飛びました

最後尾で滑り出した私達は期待したより雪が硬い事に気づきました。どうやら八甲田山でも3月下旬ともなると、前日の好天で溶けた雪が氷結する様子です。粉雪を舞い上げて滑るはずが、部分的にはガリゴリのバーンになってました。それでもしばらくは気分良く斜面と戯れてましたが、5合目くらいから事情がガラリと変わりました。

 気温が上がって雪が緩み出しました。溶けだした未圧雪斜面の手強さに初めて気づきました。体重の軽い子供達は器用にガイドに付いて行きますが、私と嫁さんのスキーは全く滑らなくなりました。麓に近づくほどに斜度が減るほどに、早春の午後の雪はズボズボ埋まります。転倒してびちゃびちゃ、起き上がるにも難儀する重い雪で濡れた四肢は冷えてきます。誇張抜きで、“死ぬかも知れない・・”と感じるほどに疲れ果てて、やっとこさ滑り降りた所は八甲田山麓を周回するバス停がある休憩所でした。立派な銅像が立っており、ここで多くの日本陸軍兵士が凍死したと記してありました。これが高倉健さんの“天は我を見放したか!!”という台詞でも有名な“雪中行軍遭難記念像”だったのは偶然にしても偶然過ぎる笑えないオハナシでした。



 2017年度の大阪府主管は恒例の医師団体戦、ダブルス大会に加えて、近畿医師シングルス大会とダブルス大会です。その次の2018年度は抜き差しならない事情で、全日本医師テニス大会も主管するに至りました。この辺りの経緯は後日皆様にご報告します。旧来とはガラリと内容を変えますのでご期待ご容赦お願い致します。


               <2016年巻頭言> Shot Clock
      ……………………大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長)                           原 文雄池田市 文月会 原医院)
                     
 皆様に朗報です。2016年度にシングルス大会が復活します。慢性の自発的参加者不足で3年前に中断した大阪府医師シングルス大会が“近畿”の看板を背負って新装開店します。この下準備として兵庫、京都、奈良の医師会テニス理事各位とメーリングリストを立ち上げて綿密に打ち合わせを重ねて来ました。当面の2020年までの5年間、兵庫・大阪・京都・兵庫・大阪の持ち回り順で“近畿医師テニス・シングルス大会”を主管します。2021年の6年目以降は経過を見ながら・・・という理事内輪での合意になっています。再度消滅せず後世に残して行けるよう、皆様の奮ってのご参戦をお願い致します。

 2015年度は錦織選手の参加や衛星放送枠の拡大で、発足2年目のInternational Premier Tennis League(IPTL)が日本でも賑わいを見せました。男子単複、女子単、混合複、引退男子単の5本で獲得ゲーム総数を競う試合です。テニス通の知人の多くも神戸での大会を現場で観戦しました。“面白かった!!普段と違う観点で興奮できた!!”と概ね好評でした。テレビ画像で見る範囲でもエクシビションだからこそ、ATPWTAの熾烈なpoint raceから解放されたトップ選手達のテニス自体を楽しむ姿勢に好感が持てました。レシーバー側が指定したポイントを取ると2得点と換算されるpower pointはゲーム性・ギャンブル性を高めて上位選手が負けた場合の言い訳・逃げ道を用意している周到さを感じました。この様式では各種の時間短縮策が試行されています。Shoot outと称するsudden death tie break, 全試合ノーアド、レット無し、チェンジコート省略、秒数短縮制限・・・・などなどの改変が取り入れられています。またIPTLとは全く別に、米国を舞台として古くからWTT(World Team Tennis)という団体戦も興業されています。こちらは現役プロのみで男子単複、女子単複、混合複の5本で獲得ゲーム総数を競う様式です。WTTも時間短縮策はIPTLと類似ですが、各試合5ゲーム先取を採用しているのが大きな相違です。

 これら時間短縮策の多くは、随分と昔から事務方から提案されては、選手側の反対にあって拒絶されて来ました。現行のツアーレベルで選手側が許容したのは複でのノーアド、マッチタイブレーク制度だけでした。今回はTV放映、スポンサー、観客・・・のためという大義名分を選手側が呑んだ形になっています。

各々の時短策について私見を述べます。公平は善で不公平は悪だと思っています。“運”は人間の意志や力が関与できない領域です。

レット無し-----賛成です。というかレットは廃止すべきだと思っています。レットとは主に天然芝でのテニス創世記の遺物だと思います。当時は支柱やワイアの材質、強度の加減でネットは強く張れなかったと推測されます。ユルユルネットのコードボールは速度が吸収されてネット近傍にポトリと落ちます。ネットさえ超えればレシーバーは対応できずに、圧倒的なサーバー有利になっていたという歴史背景からこのルールは作られたと私は思っています。現在のネットの張力ではコードボールの行方は“運”任せです。サーバー、レシーバーどちらの利益・不利益にもなり得ます。レット廃止しても、運次第で恨みっこ無しで不公平は発生しないと思います。

トスアップすれば必ず打つ・・・賛成です。トスもテニスの技量の内の重要な要素です。ラケットの通過する位置にボールを置きにいく作業ですね。サーブとはトスアップした時点で開始されていると解釈すれば良いだけです。トスを失敗すれば1回分のサーブ(1ポイントではありません)を失うというのが合理的です。トスを失敗すれば何回でもやり直して良い・・というルールの方がサーバー優遇偏重で不公平であると私は思います。

チェンジコート省略・・・賛成です。規則で90秒ないし60秒以内と規定されているチェンジコートですが、意外とそれ以上の時間を費やしていたりします。日光、風向き、背景などでの有利不利は確かに存在します。1試合の半分を片面側で過ごすように設定すれば良いだけですね。現在基本で試合開始直後を例外として合計2ゲーム終了後にしている作業を合計3ゲームないし合計4ゲーム毎に変えてみるというのも一考の価値があると思います。室内は勿論ですが、屋外でもチェンジコートの回数は少ないに越した事はありません。

ノーアドに加えてtie-breaksudden death・・・まあここまで来れば運次第ですからジャンケンみたいなsudden deathで良いと思います。興奮は凝縮されるし、意外や意外・・結局精神面も含めて長い期間で見れば、単純に強い方が勝ちます。

WTTの5ゲーム先取・・・意外と使えます。おススメです。4ゲーム先取でやる違和感はあまり生まれません。忙しい時に一度やってみて下さい。1−1終了時点から始める6ゲーム先取だと思えばなおの事、普段の感覚でテニスできます。

Shot clock・・・・ボールがdeadになってから15秒経過時点で第一サーブが放たれていないと自動的、機械的に警告音が響くシステムです。類似の制度はバスケットボール、ハンドボール、はたまた将棋や囲碁でもありますがテニスでは、今までやりたかったけど出来ていませんでした。釈迦に説法、耳にタコですが、公式の試合ではボールがdeadになってから次の第一サーブが放たれるまでの“ポイント間”は20秒と規定されています。これは世界のツアーレベルから日本のJTAルールブックまで普遍です。しかしながら現実は理想に追いついていません。球拾いに手間取った・・観客が動いた・・・拍手が鳴りやまなかった・・・などなどの情状酌量で20秒を超えた場合もサーバーに対する警告は稀です。時間も厳密には計られていますが、誰にでも見える形にはなっていません。IPTLの興業では15秒経過時点で自動的に警告音がボーーン!!と会場全体に鳴り響きます。20秒経過時点で第一サーブが放たれないと機械的にレシーバーの得点となります。TV画面から見る範囲では選手もトッププロばかりですから、“意図的に”手間取っても15秒の警告音と同時くらいにはサーブを放っています。この時に雑音や嬌声が上がっても、視野に入る観客が動いていても問題は無さそうに試合は進行しています。“へエーー!!やろうと思たら出来るヤン!!”というのが素直な感想でした。厳密な20秒って本当に短いですね。私達が遊びでチャッチャカとゲームしてるのと同じくらいのテンポで、無駄なくポイントは重なって行きます。見ていて爽快です。自分でもちょっと真剣に試合すると、20秒を超えてる場合があるかも知れないと反省しました。ボールdeadになってから15秒経過時点で警告音が情状酌量無しに全自動的に鳴る・・・非常に良いシステムだと感心しました。ポイント間の長い医学生大会などは特に参考にして頂きたいと思います。医師会の大会でも、サーブの構えなどで“本人はルーティンと思っているであろう動作”で時間を浪費している選手が時折見られます。他の選手の時間を奪う“迷惑行為”になり得ますので、是非お止め下さい。

 最後に話題は変わりますが,hawk-eyeと呼ばれる弾道画像解析システムのお蔭でテニスは随分と気持ちの良い競技となりました。高額な設置費用が難点ですし、本当に全部が正しく解析できているとは限りません。しかしラインジャッジで揉めるのは不毛です。コートの表面素材によってはボールマークが残るにせよ、終わってしまった過去を論じる根拠が選手と審判の“主観”ではお互いに納得できる筈もありません。新しい判定基準を手に入れたお蔭でライン際の不確実性と、選手、審判、観客全体を含めた人間側のストレスが激減しました。改革改善は常に必要ですね。

 日本医師テニス協会も2015年度に矢住前理事長の任期満了に伴う退任により、大石新理事長が就任されました。大石執行部の一員として原文雄も副理事長の責を仰せつかっております。江本敬大阪府名誉会長と山田修大阪府理事も日本医師テニス協会理事を兼任して頂いております。会員各位も全日本医師および大阪府大会への積極的なご参加をお願い申し上げます。いずれの大会もご要望、ご希望などありましたら大阪府理事までお報せ下さい。大阪府内部の意見も日本医師テニス協会全体に反映させやすい環境にありますので、どんなご意見も幅広く検討させて頂きます。




      <2015年巻頭言> 就任挨拶
          ……………………大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長)

                          原 文雄池田市 文月会 原医院)  

2014年は錦織圭選手の快進撃に乗って、日本のテニス界全体の気分が高揚した年度となりました。彼のATPランキングの上昇度合いは、傍目にも分かる実力の増進としっかり相関していました。何の不思議も魔術も無い現実味に溢れた躍進振りが印象的でした。“強い者が勝つ”“勝つためには強くなるしか無い”というプロの単純な真理を見せてくれました。

大阪府医師会テニス部(大阪府医師テニス協会)では、4月に2006年から4期8年間会長を務められた江本敬先生のご勇退に伴い、個人的にも30年以上の親分子分関係を頂いている原文雄がその職務を継承させて頂きました。ご自身では語る事の無い江本前会長の全能多才ぶりをご紹介します。無類の読書家であると同時に、本協会の格調高い巻頭言の数々を読めば自然と分かりますが、正式な紀行本を出版された優れた文筆家です。ご趣味は多岐に渡りますが、スポーツ全般ではゴルフとスノーボードが先ず挙がります。お嬢様の一人は元プロ契約を持つスノーボーダーで、ご自身も地域大会で優勝歴をお持ちです。海釣りは現在も旬の状態です。釣果を大切にされるため、外科で取った杵塚で包丁を振るわれます。研究熱心な美食家ですから、ご自身の料理にもその味を反映されます。巧みな話術は人を惹きつけますし、社会人落語日本一決定戦を主催する池田市の大会に出ても戦えるほど完成された落語も演じられます。音楽も声楽を基礎として、ピアノやギターの弾き語りまで余裕で披露されます。現在は小唄と三味線の御稽古が毎週のルーティンです。奥様と共に洒脱な和装で歩けば街ゆく人達は振り返ります。優れた統率力で本協会を引っ張り、大阪の顔として2013年度全日本医師テニス大会会頭を務められました。恒例の大阪府主催大会ではレフェリーも兼ねて運営に当たられます。本職のテニスではキックサーブと伸びるバックハンドを軸にプレーを組み立てるオールラウンドな正統派です。全日本医師大会でもダブルスで大阪、福岡と現在2年連続優勝されています。原家が内職でやっていた当協会事務局は、任期中に委託新設を主導して下さいました。本当に8年間有難うございました。今後もご意見番、お目付け役、選手として本協会活動へのご参加を約束して頂き心強く思っております。江本前会長の大きな業績をお借りして、原文雄も当協会の今後の発展に寄与すべく努力致します。

昭和56年春、“鈎引きは、息をするな!!”という名言を吐かれた、元祖神の手を持つ鬼教授が主宰する北摂医科大学の消化器外科に、私はピカピカの新兵さんとして入局しました。まあ、息もしないくらいにしっかりと鈎を固定して術野を確保せよという言い回しですね。当時は卒業直後に医局に属してから研修を回る制度でした。同期入局者7名の内、私も含めて6名がラグビー、野球、ハンドボールなどの運動部主将経験者というストレスに強い、使い減りのしない体育系集団でした。昼夜を問わずボロ雑巾の様に働いて時給が100円未満という超ブラックな環境も、自虐の笑いに変える能天気さを皆が持っていました。担当患者の手術があると内容を問わず泊まり込みの術後管理です。外科医飲むべし!!の風潮がありましたのでICUと酒場を往復してる内に夜が明けたりします。まだまだパワハラという単語も無い時代ですから、“研修医”に人権はありません。鈎引きで確保すべき術野が見えなくて覗き込むと、“頭突き”を喰らったりします。不手際があると手術台の下で“蹴り”を頂戴する場合もあります。

この何事も上意下達の軍隊式組織で、別部隊の小隊長として活躍されていた江本先生とお会いしました。バリバリの敏腕若手外科医として、泥臭いタコ部屋の中で洗練された異彩を放っておられました。所属されていたホームコートまでご自慢のスポーツカーを駆って、時折、私をテニスに誘い出してくれました。二人で思い切りシングルス対戦を楽しむ事が、重苦しい生活の中で大きな息抜きを与えてくれました。

当時は草野球隆盛の時代で医局単位のチームが意地とプライドを賭けてガチンコ勝負を繰り返しておりました。野球狂でも有名だった負けず嫌いのワンマン教授は、鬼監督に変身して、常に陣頭指揮を取ります。腕に覚えの医局員は監督命令!!で四国や中国地方の出向病院から高槻のグラウンドまで日帰りの試合参加を強要されます。大切な局面でエラーや不始末があると、フセイン政権下の旧イラク代表サッカーチームの様に“公開鞭打ち刑”にあったりします。失うモノの無い研修医にとっては野球自体が鬱憤晴らしの機会でもあり、日中に“公務”として病棟を離れられる事を喜んでおりました。医局王座を決めようとの気運が徐々に高まり、大学組織が主催者となり研修2年目の秋、正式かつ大々的に“医局対抗野球大会”が発足しました。

大会直前の真夜中に、普段通り術後管理の一部である飲み会で酩酊したまま病棟間の渡り廊下!!で医大野球部で捕手だった同期とキャッチボールをしておりました。夜間でもボールが見えるほど明るいのは、病院敷地内ではこの場所だけでした。ピシ・・・という快音が真夜中の廊下に響きます。酔いも全開になりミットに替えた同僚を座らせて、少年野球時代に覚えた渾身のストレートをドリャ!!っと投げ込んでおりました。そこへ岡山弁で上機嫌の掛け声が・・・“何しよんなーーー??”泥酔した鬼教授がママチャリに乗って廊下を通り過ぎました。廊下ですよ。廊下!!投球練習と自転車・・・・どちらの罪が重いかは別にして、事実は小説より奇怪でした。外科医は何でもアリの美学を一部では許容させ得た最後の世代だったかも知れません。

夜中の努力??を認められたか否かは忘れましたが、大会途中から投手を任じられました。球種も直球と大小のスライダーしか持ち合わせておりませんが、ベンチに座る鬼監督怖さに同僚のミット目掛けて丁寧に投げました。何とか最少失点に抑えながら勝ち進んで、準決勝は直接の利害が絡み合うライバルの消化器内科。相手は医大野球部出身者を揃えていて、鬼監督のボルテージは上がります。戦力充実して前哨戦無敗の消化器内科は、主任教授が投手に出てくるなど余裕をカマしたのが敗着となって当方の外科に勝利が転がり込みました。鬼監督は天王山を制したと狂喜されました。決勝はピチピチの男性看護師軍団で固めた精神科。牛島香川世代の浪商野球部の選手が居りました。詳細までは記憶にありませんが、悪運も積み重ねて奇跡的に勝利して記念すべき第一回大会で優勝。決勝戦は臀筋がつって最終回にリリーフを仰ぎましたが、何とか投げ抜いた私は主催者から大会MVPを頂戴しました。芸は身を助けると申しますが、これで私は医局内部で“やる時だけはキッチリやる研修医”という定評を得ました。

しかしながら安穏な日々は続きません。名選手の下で球拾いだけを極めてもテニスは上達しません。テニスの強い奴は球拾いも上手いだけです。ボーゲンだけ練習してもスキーの達人にはなれません。どんな斜面でもカッ飛べる奴はボーゲンも楽勝というだけの事実です。医局の方針に違和感を持って、2年の研修終了時点で比較的円満に退社できる方法を模索しました。学生時代にやり残した自動車競技も続けたかったので、北河内医大病理学教室に助手として正規雇用の就職口を得ました。病理とバイトと海外留学、5年の後で卒後8年目から臨床をやり直して、この選択は正しかったと今でも思っています。外科退局時に“オマエが居らんと野球が困る!!!”と神の手教授に言わしめた事は生涯私の誇りとするところです。

北摂医大では、本協会元副会長の菱谷先生、南原先生にも随分と可愛がって頂き、医師会や一般の大会にも頻繁に呼んで頂きました。江本先生、菱谷先生、南原先生が居られなければシニア入りしてからテニスを再開する事も無かったと思います。
お3人にはこの紙面を借りて深く御礼申し上げます。

会長就任後の運営方針としては“早期の世代交代”を挙げます。着任初年度の抱負としてはやや無理もありますが、可能な限り早い時期での退任を希望しています。副会長、事務局時代も含めて10余年間本協会運営に携わってきました。江本前会長が種を播いて頂いた若芽も逞しく育って来ました。還暦を迎えて今まで出来ていた事と今出来る事の落差に驚く毎日です。老化、衰えと言ってしまえば話は簡単ですが、公務から引退してもう一度自分のテニスをやり直してみたい気分になる事もあります。組織をより強化して次の世代に引き継ぎたいと思っています。

          文責  原 文雄


<巻頭言> お読みくださる皆様へ2014年度会報より

……………………大阪府医師テニス協会会長
                (大阪府医師会テニス部部長)
 
                            
 江本 敬豊中市 江本医院)

2013年10月の全日本医師テニス大阪大会へご出場、あるいはご協力を頂きまして、まことに有り難うございました。皆様のお蔭をもちまして、大会は好評のうちに無事終了致しました。心から感謝を致しております。

「如是我聞(にょぜがもん)」は仏教経典、「師曰く(しのたまわく)」は論語、
「一日示に曰く(いちじつじにいわく)」は正法眼蔵随聞記で、すべて教祖の言葉があまりに有り難く、泡のように空中に消えてしまうのがもったいないので、弟子が記録して遺したものです。

孟子にも「公孫丑」という高弟がいて、その言辞を書き残しました。
孟子曰「天時不如地利 地利不如人和」(孟子 公孫丑章区 下の一より)
読み下し文:孟子曰く「天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず」
意味:孟子は言った「天のもたらす幸運は地勢の有利さには及ばない。地勢の有利さは人心の一致には及ばない」

同名のNHKの大河ドラマもありましたが、古来より中国では「天・地・人」の対立あるいは融合を尊んできました。孟子は城攻めに例えを取ってこの言葉を示しましたが、今の社会でも十分に通用するインパクトがありますね。物事を成就させるには、天の時、地の利、そして何より人の和が揃わなければなりません。

我らが大阪大会も「天の時」に恵まれました。大会開始当日、大阪では午前2時頃まで暴風雨が吹き荒れました。アメダスの雨雲の動きに一喜一憂しながらも、回復基調という天気予報を信じて朝を迎えました。前線通過は秋晴れと共にチベット高気圧の冷気をも、もたらしてくれまして、厳しかった残暑に天然のクーラー、スイッチオンです。(空気がチベットうて気持ちええな)と大阪の人間なら考える所です。大会会期の三日間は大変な好天に恵まれましたが、終わった次の日からはまた大雨が続きました。これを天の時と言わずして、ですね。

大会会場のマリンテニスパーク北村は25面が一か所に集まっており、大会運営には非常に便利なコートです。また総会や理事会会場のホテル大阪ベイタワーにも約3kmと至便で、USJや海遊館そしてミナミなどのスポットも近く、観光組にもよい立地条件でした。

こうした天の時、地の利もさることながら、それだけでは開催はおぼつきません。色々な人の輪と和が重なり合ってこその成功だったことを、今更ながら噛み締める次第です。ご配慮やご指導を頂いた全日本医師テニス協会の諸兄諸姉、そして同協会事務局の伊藤摂子様、原先生ご夫妻を筆頭としてご活躍頂いた大阪府医師会テニス部幹部や事務局、そして何よりご参加頂いた皆様の「和」があればこその成功でした。いまでも想い出すと胸が熱くなります。

さて、これで何とか一段落を致しましたので、平成26年3月31日をもちまして、江本は大阪府医師会テニス部の部長を退きます。次は名実ともに実力を備えた原文雄先生にお願いを致しまして、大阪府医師会テニス部の今後の隆盛を見守っております。無論各種大会にも参加を致しますので、お手柔らかに、宜しくお願い致します。

                           文責  江本 敬

2013年 名称問題解決 2013年会報巻頭言より  
……………………大阪府医師テニス協会会長 
             大阪府医師会テニス部 部長 

                              江本敬(豊中市 江本医院)

「顔にガットの紗を掛けた江本です」

大阪府医師テニス協会会員の皆様には各種大会を含む当協会の行事にご参加、ご協力を頂きまして、まことに有り難うございます。特に今年は10月12〜14日に大阪で第40回全日本医師テニス大阪大会・スポーツ予防医学研究会が開催されます。幹部一同今から準備に余念なく、楽しい大会にして参りたいと思っておりますので、是非ともご参加下さいますようお願いを致します。

さて、当テニス部の名称に関しまして従来から若干の問題がありました。全日本医師テニス大会の主管を機にして、この名称問題が表面化する恐れがあり、これを解決しておくことに腐心を致しました。その状況や経過等につきまして以下にご説明を致します。

当協会の正式名称は「大阪府医師会テニス部」であります。大阪府医師会のほかのクラブと同様に、府医に対して前年度の実績や会計の報告をし、また次年度の事業計画を提出して、府医から補助金を受けております。府医全体の予算の関係から毎年少しずつ減額されてはおりますが、年間10数万円の補助を受けて来ました。

しかるに当協会の各種活動は「大阪府医師テニス協会」の名称のもとに行われて来ましたが、この組織は会員、担当理事、各種活動を含めて「大阪府医師会テニス部」と全く同じものであります。なぜ二つの名称があるのか、まずその理由をご説明致します。

日本医師全体のテニス活動を統括する団体の名称は「日本医師テニス協会」であります。これ準じまして、全国ほぼすべての都道府県単位で医師テニスを統括する団体は「北海道医師テニス協会」「東京都医師テニス協会」「・・県医師テニス協会」と「協会」の名称を用いております。これに準じまして我々も「大阪府医師テニス協会」としております。

当協会は全国でも最も活発に活動している医師テニス協会であり、またテニスを通じた他府県医師との交流が多い団体であると自負しております。府下で主催する各種大会には、東北・関東・中部地方から中四国、九州に至るまで毎年遠路多数の先生方がご参加下さいます。その理由として、大阪府での大会参加者や競技のレベルが非常に高い事、そしてまたこよなくテニスを愛し、心からテニスを楽しむ会員諸氏のお蔭様で、真剣な中にも和気藹々とした雰囲気で大会が運営されることなどが上げられます。各種大会は一般の全日本大会経験者を含むハイレベルの選手からはもとより、また一方で初心者、週末プレーヤーからも高い評価を得ております。

そして同時に当協会の皆様も、近畿大会や全日本医師テニス大会において大いに活躍されて常に上位入賞を果たし、人数そして質ともに重要な一大勢力であるとの評価を受けております。このような状況で会員の皆様は、対外的な試合や交流の場では、他府県に倣ってその所属も「大阪府医師テニス協会」とされます。

このように普段の活動を「大阪府医師テニス協会」でおこなっておりますので、大阪府医師会に「協会」への名称の変更を申し出たことがありますが、却下されました。あくまで「大阪府医師会テニス部」の名称でなければ府医のクラブとして認められず、従って補助金を出すことはできないというのがその理由でした。当然と言えば当然な話でありまして、「大阪府医師会テニス部」からの名称変更は致しませんでした。

しかしこのように二つの名称を持ったまま全日本医師テニス大会を主管するとなると、種々の問題が生じて参ります。全日本大会の慣例にならって「大阪府医師テニス協会」の名称で主宰をしますと、まず一つは府医からの「後援」を得ることが難しいことになります。また参加費を経費計上するために同時に開催される「スポーツ予防医学研究会」での「生涯学習単位認定」の取得も困難です。このような理由もあって、名称は二つあるものの実は同じ組織であることを府医に認めて貰うことが喫緊の課題になりました。

そこで昨年11月に府医で行われましたクラブ担当者会議で、上記の状況について縷々説明を致しまして、二つの組織が全く同じものであるということにつきまして、クラブ担当理事及び管轄する総務課の諒解を得ることが出来ました。この日からめでたく「大阪府医師テニス協会」と「大阪府医師会テニス部」を堂々と使い分け、或いは併用することが出来ることになった次第です。長年の胸のつかえが一気に降りたような気が致しましたが、会員の皆様におかれましても上記の二つの組織は全く同じものであることを、誤解なきようご理解頂きたいと存じますので宜しくお願い致します。

最後に大阪で開催される「第40回全日本医師テニス大阪大会・スポーツ予防医学研究会」についてのご案内を再度致します。是非ご参加を頂いて、日頃の研鑽の成果を発揮なさって下さい。

平成25年10月12〜14日(土曜〜月曜の祝日)の三日間、コートはいつものマリンテニスパーク北村のコートを全面借り切って行われます。懇親会及び宿泊はホテル大阪ベイタワーをご用意しております。幹部一同張り切って準備をしておりますので、楽しみになさっていて下さい。

以上です。末尾になりましたが、会員の皆様の益々のご健勝とご活躍を祈念しております。




追悼

山村喜一先生におかれましては、平成24年11月7日にお亡くなりになりました。享年61歳でした。早世を悼み、ここに追悼の辞をお送り致します。                     

山村先生は大阪府医師テニス協会主催の大会にもよくご参加下さって、矢のように鋭いフォアハンドストロークを武器に常に優勝や上位入賞を果たしておられました。平成23年の全日本医師テニス大会千葉大会でも、私はダブルスで山村先生と対戦し、激戦の末に負けてしまいました。あの時のお元気な姿からは全く考えられないことでしたが、昨年11月訃報に接しまして、ただただ錯愕した次第です。「満空の風雨、夢、茫々たり」の悲しみです。

山村先生のご冥福を心からお祈り致します。          江本 敬



        2012年 巻頭言 「大天才」 
           ……………………大阪府医師テニス協会会長  
                              江本敬(豊中市 江本医院)

 「世の中は 澄むと濁るで大違い ハケに毛がありハゲに毛がなし」と戯(ざ)れます。また「世の中は 澄むと濁るの違いにて 福に徳ありフグに毒あり」こちらのほうはややスマートですか。

 昨年度会報の巻頭言でシーザーの写真が載っておりましたが、原統子先生から「江本先生、シーザーによく似ておられますね」とのお世辞を賜りました。読み進んで頂ければお判りになると思いますが、これは分に過ぎたる大賛辞なのであります。しかしとりあえず似ているとすれば額だけでありまして、彼は禿げ上がった前頭部を隠す為に頭頂部の毛髪を延ばしてカールさせ、前に垂らしておりました。それには「シーザーカット」なる名称までついております。


 シーサー
ちなみに前号には沖縄のシーサーの写真も一緒に載っておりましたので、念のために統子先生に確認を入れました。

  シーザー

「私が似ているのはシーザーの方ですよね? シーサーではありませんよね」

世の中は澄むと濁るで、大違いなのであります。

       閑話休題

 私の座右の銘のひとつに「知足」があります。足るを知ることですね。

 欲望には二種類あって、食欲や睡眠のように満たされると減っていく欲望と、金銭欲、名誉欲のように溜るほどますます膨らんでいく欲望がありまして、こちらの方は自制を効かさねばなりません。

 そう、「知足」ですので私はあまり人のことを羨ましいと思うことはありません。しかしジュリアス・シーザー、彼の人生だけは羨ましくてたまりませんね。もし今から「もういっぺん誰かの人生をやってええよ」と言われたら、たとえブルータス等によって殺されることが分かっていても、一も二もなく「シーザーでお願いしますっ」です。

 私は世界の歴史上の人物で、文句なしダントツの大天才は、たった二人だけと思っております。一人は無論シーザーで、もう一人は空海すなわち弘法大師様です。まずは、空海がどれほどの大天才だったかを少しお話しておきましょう。


空海

 空海30歳の時に、後に比叡山を起こす最澄らと共に遣唐使船で長安に向かいました。到着までの間にも比類なき天才ぶりを示すエピソードがありますが、全て略して先を急ぎます。西暦804年12月に長安に着くやすぐ、空海の書や詩作の才能が文人の間で話題となり、当時世界最大の国際都市長安で一躍時代の寵児となります。

 しかしあくまで僧侶として唐に渡った空海ですので、まずはインド僧の般若三蔵に学び、続いて805年5月青龍寺に入門して恵果阿闍梨の教えを受けます。そしてわずか3ヵ月後には数百人の門弟達を飛び越えて恵果和尚から灌頂を受け、彼だけが教義の全てと共に寺宝を受け継いだのです。更にその3ヵ月後に、老師恵果は抜け殻のようになって入寂してしまいます。そのとき空海は代表として師の業績を顕彰する碑文を起草しました。私の人生64年間で古今東西色々な文章に出会いましたが、空海がこの時書いた碑文ほどのすごい文章はちょっと他に思い当たりません。

 その空海の長安での活躍ぶりを現代に変換して例えれば、パプアニューギニアあたりからやって来た骨を鼻に通したような人が日本語の達人であって、たった半年の間に芥川賞・直木賞を受賞したかと思うと、東大の文V・理U両方の教授に就任してしまうというようなもので、それはそれは八面六臂の活躍ぶりでした。

 20年の留学予定をたった2年で仕上げて帰国致しましたが、爾後空海の国内での業績は皆様ご存知の通りです。私は真言宗ではありませんが南無大師遍照金剛、お大師様は今でも生きておられまして、高野山金剛峰寺奥の院では毎日食事が供えられているとのことです。

 では続いてシーザーに参ります。以下巻頭言としては異例の長文になってしまいますがご容赦下さい。

パプアニューギニア
アスマット族

1.      シード入り


カエサル

 ジュリアス・シーザーすなわちユリウス・ガイウス・カエサルは紀元前のちょうど100年に、名門ではありますが裕福でない家に誕生しました。以後カエサルと呼びます。

 カエサルは16歳で当時の権力者マリウスの親族の娘と結婚しました。しかし蜜月も束の間、以前マリウスに追い落とされたスッラが兵を蓄えて攻めのぼり、ローマでは2年間の内乱の末にマリウスは戦死してスッラが権力を奪います。その後始まったマリウス関係者の粛清はスッラの恩讐凄まじく、処罰者名簿には4千7百人の名前が書かれていましたが、カエサルはその上位32人の中にシードされておりました。



マリウス

スッラ

 しかしカエサルの才能を惜しむ大勢の人達が、自らの危険も顧みずスッラのもとへと助命嘆願に行きます。中には大物もたくさん居て、さすがのスッラも「命だけは許すがマリウスの血を引く娘とは離婚しろ」と条件を出します。当然カエサルは離婚して命が助かるものと誰もが安堵しましたが、なんと19歳のカエサルはこれに「ノー」と答えたのです。身重の嫁に対する愛情もあったでしょうが、権力に対する反骨精神がこの頃からありました。また後年カエサルは打ち負かした敵に対して復讐ではなく寛容をもって対処することを常としましたが、その精神の萌芽がすでにここにあったと考えます。

 いずれにしてもそののち彼は当然の逃避行を余儀なくされます。バルカン半島や小アジアあたりを隠れながらウロウロしていたようですが、幸運なことに3年後にスッラが死に、22歳でローマに戻ることができました。

    2. 身代金

ロードス島

 24歳の時に留学志願、当時学問の聖地であったロードス島へと向かいますが、船ごと海賊に捕えられてしまいます。捕虜となった大勢の船客の中、彼には身代金20タレントの値が付きました。20タレントとは当時のギリシャの通貨で、4千3百人の兵士を1年間雇える金額です。今の自衛隊員の給料はあまり参考にはならないでしょうが、少なめに見積もっても約40億円でして、身代金としては驚くような大金です。ところが当のカエサルは呵呵大笑し、「お前たち一体誰を捕まえたと思っているのか。我は名門ユリウス家のカエサルであるぞ。身代金は50タレント(100億円)だ。一文もまからん」と、これでは一体どちらが人質なのか分かりません。

 しかしこれにはカエサルの冷静な計算があって、海賊共は人を殺すことなどなんとも思っていないので、50タレントに値上げしておけばまず殺されることはないだろう、しかしあまりに多額すぎると調達が困難になるし、ぎりぎりの線がこの辺だろう、と考えたのです。100億円でも十分多額と思いますが、それは一億総中流の今の私達の感覚であって、当時の貧富の差はとんでもないものだったのですね。


アッピア街道
 例えばですが、古代ローマの大富豪は社会貢献の一つとして、私財で街道を造りメンテナンスをしました。アッピア街道、フラミニア街道、アウレリア街道など全て造った個人の名前がついています。軍隊の迅速な移動目的で造られたそれぞれが数百キロにもわたる街道は、山を穿ちトンネルを掘り峡谷には石の橋を架けて、ほとんどフラットに造られておりました。片側2車線で歩道もあり、またその表面はナイフの刃も入らないほどに完璧な石の舗装が成されておりました。今の感覚で言えば、大金持ちが小遣い銭で中国自動車道を造って寄付をするという感覚でしょうか。古代ローマにおける大富豪達の資産というものは、ちょっと想像を絶するものがあります。

 さて豪胆なカエサルは、100億円に値上げしたのでまず殺されることもなかろうと、海賊たちの間で大きな顔をして暮らしておりました。38日後には身代金を調達に出した使いが戻ってきて彼は解放されますが、その時にも言い放ちます。

「お前たち、全員つるし首にしてやるから覚悟をしておけ」

 実際に彼は解放されるとすぐに近くの港に急行し、船と人とを集めてその海賊船を見つけて急襲、全員を捕まえることに成功しました。50タレントは無論お返し願ったでしょうし、最終的に海賊どもは全員絞首刑になりました。弱冠24歳で、危機に陥っても見せたこの冷静沈着な判断力と旺盛な行動力には、後半生のカエサルを彷彿とさせるものがあります。

    3.単なる助平か
 その後40歳頃まで、カエサルはほとんど何もしておりません。いい金づるをみつけて借金をしては女性につぎ込み、ほとんど遊び呆けておりました。主な貸主はクラッススという政治家で、彼の財産といえば国家予算の7割がたもありましたが借りたカエサルもカエサルで、今の金額で3千2百億円以上を借り込んでおりました。しかしここにも彼の計算があって、借金がかさめばかさむほど彼を大事にしてくれるはずだ、という意識があったのです。事実彼は膨大な金額の故に、クラッススによって借金を取り立てられるのではなく、政界で上に上にと取り立てられて行きました。そしてクラッススはカエサルの反元老院政策を進めるために、リスクを負ってまでポンペイウスとの三頭政治の一翼担ってくれさえもしたのです。

 3千億円も女性につぎ込むって?と思われるでしょうが、百億円近いような真珠のネックレスをポンとプレゼントする、そんなことを繰り返していたのでは無理もありませんね。その気前の良さだけが理由ではなく、彼のもて方というものは半端ではありませんでした。

クラックス

ポンペイウス
 30歳台で彼は離婚しておりましたが、結婚をせまるような若い女性はややこしいだけなのでいっさい手を出さず、人妻や離婚した女性だけが相手でした。600人いた元老院議員の三分の一は彼に寝取られていた、とする研究者もいるほどです。共に三頭政治に携わり、しかし後年はカエサルと死闘を繰り返す相手になるポンペイウスさえも、彼によってコキュにされていたのです。

 
しかもカエサルの偉いところは、相手となった大勢の女性達の誰一人として彼を恨むことがなかった、ということです。これは難しい。非常に難しい。なかなかできることではありません。別れてしまったあとも、宴会などで会うごとにハグハグしては今でも好きだよと言う、このぐらいのことは最低限必要です。ですからローマの女性達はワクワクしながら、彼の順番が回って来るのを待っていたフシがあります。天才ですね。

    4.ガリアへ                   11.ラフロイグ

 私はスコッチ・ウィスキーは薬臭いのでどうも苦手です。しかしスコットランド北部のシングルモルト・ウィスキー、なかでもIslay(アイラ)島のLaphroaig(ラフロイグ)は、イソジンを麦焼酎で割って正露丸を大量に入れてかき混ぜたような味でして、大好物のひとつです。一体どんな味覚をしてるのか?そっちのほうがはるかに薬臭いのではないか、というご指摘もありますが、おいしいものはおいしいので無視します。さて、「アイラ」島も「ラフロイグ」も読みにくいスペルですね。なぜかと言いますと、それらは英語ではなくケルト諸語の一つだからです。

 ケルト民族は、現代ではアイルランド・スコットランド・ブルターニュ等の端っこに追い詰められてしまっておりますが、古代ローマ時代にはヨーロッパのライン・ドナウ両大河以西でイベリア半島までの、広い範囲に住んでおりました。この地はガリア地方と呼ばれ、ケルト民族は古代ローマではガリア人と呼ばれておりました。

    ラフロイグ

古代ケルト人の分布

 大小数十のガリア諸部族が一応平和に暮らしているところへ、豊かな土地を目指して獰猛なゲルマン民族がライン河を西へ越えて侵入してきます。そのため西へと逃れようとするガリアのヘルウェイテイィ族が他部族と玉突き衝突を起こして、大きなトラブルになりました。この解決に向かったのが42歳になったカエサルです。


 彼の率いる軍団は、裏切りを繰り返すガリアの諸部族に対して神出鬼没、かと思うとひたすら動じない。足掛け8年の長きにわたって、カエサルは天賦の才であらん限りの戦術と戦略を駆使することによって、ついに広大なガリア地方を平定し、ローマの属州とすることに成功します。この時も彼は敗れた諸部族に対して多大な寛容をもってし、部族の長達には元老院入りを許し、またユリウスの家名を大勢のガリア人たちに許しもました。
 このとき彼によって書かれた「ガリア戦記」は、ローマ時代に書かれた書物の圧巻として現代まで評価され続けてきました。自身のことですが「この時カエサルは・・」と戦の様子が第3人称で、公正にそして冷徹な視線で書かれております。また風土や風俗の描写も多く、歴史資料としても第1級の貴重品です。

 日本の冬、私達がコートを着てまだ寒がっているのに、半袖半ズボンでケロッとして街を歩いている白人を見たことがありませんか?大抵は大柄で金髪ないし茶系統の毛髪です。彼らは恐らくゲルマン民族の末裔だと思いますね。ガリア戦記によるとゲルマン部族たちは、マイナス10度以下になる冬でもほとんど裸同然の姿で生活をしており、寒さに対して異常なほど強い体質をもった民族なのだと思います。

 さてこのガリア戦記、私も一気読みでしたが、2千年の時を経ても文庫本が増刷されるというのは、物書きにとっては夢のまた夢のような話ですね。しかしこれは大天才カエサルの才能の、ほんの一部にすぎないのですから、これまた凄い。

    5.クレオパトラ

 さてガリア戦役での凱旋将軍として、盛大な祝賀パレードのもとローマに帰還できるはずのガリア属州総督カエサルでしたが、もともと反元老院政策を進めていたことと、出る杭は打たれるという万国共通のジェラシーもあって、元老院から敵対視されます。彼の情報網によると、ローマへ帰ると凱旋式どころか命さえ危ない。

 カエサルはアルプスを越えて、ポー河流域の平野を流れるローマ国境、ルビコン川まで軍を率いて帰っておりましたが、ここではたと考え込んだ。古代ローマには約束ごとがあって、凱旋将軍が軍を解散せずにローマ国内に入ると、たちまち逆賊とみなされて国内の軍団から攻撃を受けてしまいます。こうなってしまっては単身で帰るも地獄、軍と共に帰っても地獄を見ることになります。事ここに至っては内乱も辞さず、と大決心をしたカエサルは軍団に向かって「賽は投げられた」と叫び、そしてついに軍と共に国境ルビコン川を越えます。

 対する元老院側は、ポンペイウスを擁してカエサルと戦いますが、戦力からも有利なはずのポンペイウスはカエサルに苦しめられ、戦いながらの逃避行の末に当時のエジプトの首都アレクサンドリアの港で裏切りにあって殺されます。

 これで内乱は終戦となりますが、カエサルはローマには帰りませんでした。

 当時のエジプトはプトレマイオス王朝の王位継承問題で揉めており、彼は友好国の混乱を鎮めるべくそのままアレクサンドリアに留まったのです。王子プトレマイオスと姉の王女クレオパトラが互いに譲らず内乱の危機にあったため、カエサルは二人を招聘した上で調停をすることにしました。

 調停が行われる前日、夜も深更に及んでのことでした。王女クレオパトラが、巻かれた絨毯に隠れてカエサルの寝室に忍んで来ます。初めて見交わす顔と顔、やがてカエサルは破顔一笑しますがこの時カエサル52歳、クレオパトラ21歳、さあこのさき彼の寝室で事態は一体どういう事になるのか?・・固唾を呑んで読み続けていた資料が、なぜかここだけ破れておりまして記述がありません。非常に残念ではありますが、臨場感あふれる状況をお伝えすることができません。

 エジプトのプトレマイオス王朝というのはアレキサンダー大王の将軍が始祖の王朝で、王は代々マケドニア人でした。ですから今に残るクレオパトラの彫像を見てもミロのヴィーナスを少し優しくしたようなギリシャ系の顔立ちで、映画「クレオパトラ」でのエリザベス・テーラーの配役は当たらずといえども遠からず、だったのであります。


リズ扮するクレオパトラ

 若く美しく機知にあふれた世界三大美女の一人に誘惑されて、据え膳食わぬカエサルではあり得ません。しかもです、一盗二婢三妾四妓五妻と申しますが、ローマで密通を繰り返していたカエサルも、今回ばかりは盗む相手が大国エジプトと結ばれた王女であるという、かつて経験のない途方もないシチュエーションでして、これは超特撰の不義密通でもあります。海千山千さすがのカエサルも、これにはハマッてしまいました。

 あの夜以来クレオパトラを推しての半年近い内乱の末に、アレクサンドリアを平定してクレオパトラを女王に据えると、カエサルはナイル川源流探索と銘打って2ヵ月の休暇を取り、女王と共に家来達にかしずかれながら、ゆったりと大河を遡る船旅に出ます。川風に吹かれて異国情緒あふれる南国で大きな船に揺られながら、女王クレオパトラとただれた日々を送る。いいですねぇ、火傷で焼けただれるとか、湿疹で首がただれるなんかは嬉しくありませんが、相手がクレオパトラということならもう、いくらただれたって構わない。

 この間、小アジアで火の手が上がっているのも放ったままでしたが、船旅を終えて気息充実したカエサルはおもむろにシリアのアンティオキアに向かい、オリエント軍の反乱を一蹴します。この時の元老院への報告が有名な「VENI,VIDI,VICI(来た、見た、勝った)」です。

 一方の、かわいそうにも「来られて」しかも「見られて」そして「敗れ去った」ファルケナスの方の言葉は、残っておりません。

    6.オクタヴィアヌス

 カエサルが若い頃から命をかけて目指したものは、元老院による衆愚政治の排除でした。内乱を制しローマ帝国唯一の権力者となってから、彼は元老院の定数を600人から900人に増員しましたが、それは元老院の勢力拡充というよりも、一人ひとりの勢力の比率を下げることを兼ねて、衆愚政治を際立たせようとしたものでしょう。ローマ帝国が今のローマ市街ほどの大きさだった頃には充分機能した元老院も、西ヨーロッパ全土と北アフリカを含む地中海全域を領土とする大帝国を維持するとなると、逆に大きなブレーキになります。カエサルはいち早くそれを見抜いていたが故に、制度改革を進めたかったのです。

 このことは東北大震災後の日本政府の対応を見ても、よくお分かりになる筈です。官僚を含めて政府も与野党の議員達も、全員がただおろおろするだけで何もしない、何もできない。復興は全く進まず被災者はいつまでたっても被災者のままです。衆愚政治もここに極まれりの感がありますね。

 カエサルは皇帝にはなれませんでしたが、終身独裁官という身分で新制度を次々と導入、政治・経済全てを仕切ってローマ人たちの大きな支持を得ました。有事に限らず国を治めるに最も効率が良いのは、敢えて誤解を恐れずに言えば、独裁者による統治なのです。

 これまでカエサルの才能を縷々述べてきましたが、私が最も感銘を受けかつ、彼の大天才ぶりを評価する理由は次の一事に尽きます。

 彼が暗殺された時に遺言が公開されましたが、その中に「オクタヴィアヌス」を養子にして後継者にする、とありました。オクタヴィアヌス?WHO?で、ローマ市民は首を傾げました。その時オクタヴィアヌス18歳で、彼はカエサルの姪の子供でした。カエサルもまさか自分がそんなに早く死ぬとは思ってもいなかったのでしょう、オクタヴィアヌスが30歳を過ぎた頃に継承しようと考えていたに違いありません。薄れていく最期の意識の中で、オクタヴィアヌスそしてアグリッパ、あとを頼むぞと心の叫びを続けたことでしょう。


オクタヴィアヌス

アグリッパ
 カエサルの人間をみる眼は透徹しきっておりました。オクタヴィアヌスは政治・経済をやらせたら素晴らしい仕事をするだろう、しかし軍事にかけては全く駄目で心配だから、軍事の天才アグリッパを補佐につけてやろう。なんと二人がまだわずか15〜6歳の少年の頃から、カエサルはこの二人の才能とその限界までを見抜いた上で、ひそかに目をつけて後継者に決めておりました。アグリッパに至ってはその頃まだ単なる少年兵に過ぎず、その出自においても名門でもなんでもありません。しかしやがてこの二人はカエサルの期待通りの大きな大きな仕事をすることになります。大人達の醜い抵抗に立派に立ち向かい、彼の遺志を継いでオクタヴィアヌスは初代皇帝となり、カリグラやネロといった変なのも出るのですが、後の五賢帝時代へと続く「帝政ローマ」隆盛の基礎を立派に築き上げる大皇帝となったのです。

 どうです、カエサルほどの大天才がもしほかに居たら教えて欲しいもんですね。

 そしていまだに人口に膾炙するところの「賽は投げられた」「来た見た勝った」「ブルータスよ お前もか」等々、カエサルは後世に残る名コピーのライターでもありました。「ルビコンを渡る」も象徴的によく使われる言葉です。私どもも彼のコピーをちょっと拝借しまして、2001年に「来た見た食った 讃岐うどん」を上梓、ちょうどその頃始まったうどんブームにも乗って、1万部ほどを売り切りました。カエサルの眠る方向へは足を向けて寝ることができません。

 ちなみに7月はジュリアス・シーザーの生まれ月でJulyです。オクタヴィアヌス(=アウグストゥス)は、暦の改正時に余って出来た8月に自分の名を冠してAubustとしました。


讃岐うどん

 さて二人の天才についてお長々と話をしてきましたが、カエサルにテニスをして貰ったとしたら、とんでもなく強いプレーヤーであったこと間違いなしです。ストラテジーとタクティックスにすぐれ、長身から叩き込む弾丸サービスだけではなく、ストロークもトップスピンにスライスを混ぜ、時にドロップショットも巧妙に使う。また相手のウィークポイントは無論ですが、ときには長所をも徹底的に攻めて勝ちに行きます。相手は自分の得意なショットを続けても勝てないと知った時に、一気に戦意をなくすからですね。いかにもカエサルらしいテニスです。

 では空海がもしテニスをすると・・申し訳ないのですが、いくら頑張っても全然脳裏に浮かんでこないのですね、空海がテニスをする姿が。

 で最後に、この二人の大天才の人生、どちらを選ぶかと言われれば、抹香の匂いばかりで女っ気の全くない空海よりは、若きクレオパトラと過ごす中年カエサルの方が、そりゃあいいのに決っておりますよねー、男なら誰でも。

  ・・と、バカなことばかり考えながら、日々を過ごしております。

  「世の中は 澄むと濁るの違いにて 墓はあの世で バカはこの世で」


2011年度 会長挨拶

     ……………………大阪府医師テニス協会会長  
                           江本敬(豊中市 江本医院)
              

 古今の名人上手の言には、なぜか相通じるものがあります。ミケランジェロは「大理石の中にいる天使を彫り出しただけだ」と言い、仏師は「材木の中に居られる御仏の、周りの木を除いてさし上げただけ」と言います。

 史上稀に見る行政と戦の天才ユリウス・カエサルの言葉に次があります。カエサルとは英語読みでシーザーですね。え?沖縄で屋根の上にいる狛犬もどき? それはシーサーです。

 「どんな悪法も悪い制度も、最初は善意から始まっていることが多い」

 東京工大名誉教授でロボット博士として有名な森政弘氏が、昔ある対談で異口同音、次のように述べていて印象に残りました。
 「悪に固執するということはまずありませんが、善にはとりつかれ易いのです。善に固執した時、そのことが次の悪の芽生えになっていることに気付かない」

 森政弘氏は工学博士ですが仏教特に禅宗にも造詣が深く、モノ屋が心のことを色々と説くので却って説得力がありました。そうです、ココロ屋が心のことを説教すると、いかがわしくなってしまうことがよくありますからね。

 さて彼、森政弘氏の言説には、今でも記憶に残る名句がたくさん有ります。

 「物事を解決するには“漸”と“頓”のふたつの方法がある」
 すなわち徐々に順次を経て進むことを「漸悟」、一足飛びに究極の悟りに至ることを「頓悟」というそうです。道がふたつあるようですが実はそうではなく、渾然一体となってこその「漸と頓」なのです。日々の修行や座禅があるからこそ、日課の掃き掃除をしていて箒で掃いた小石がコンと木の幹に当たった瞬間に、ハッと大きな悟りが来たりします。
 エジソンの言葉ですが「天才は1%のinspirationと99%のperspiration」の言葉も、ひらめき=「頓」と、汗すなわち努力=「漸」との両方が不可欠であることを物語っています。

 また問題解決には、その為の意識を持ち続けることは無論必要ですが、それに捉われ過ぎないことも大事であるらしく、森政弘氏の印象深い造語に「念・忘・解」があります。この原稿を書いている今は「忘年会」のシーズンたけなわですが、関係がありません。

 ネパールからの依頼で、動力の要らない渡船を考えて欲しいと言われました。川に発電するぐらいの大きな流れのエネルギーがあるのだから、なんとかそれを利用できないか、という訳です。さてエンジンもオールも使わずにどうやって流れを横切るのか、アイデアはなかなかに浮かんできません。
 一生懸命に考えている状態、これが「念」でして、そこで次の段階すなわち「忘」にはいります。なかば諦めた状態でいったん忘れてしまう。表層の意識からは消えてしまいますが、しかし意識の底では常に問題について網がはられている状態なのでしょう、お正月に凧揚げを見た瞬間にポンと「頓」で解けた。
 凧は船、風が流れです。対岸までロープを張って舟を斜めに取り付けるだけで、実験の天竜川で舟は白波を蹴立てて対岸に向かいました。
 「念・忘・解」のお手本として、森政弘氏がよく引用されました。

 そしてこの話にはまだ続きがあります。
 実験で成功した自然力ボートをテレビで放映するのに、タレントに乗って貰って撮影をしておりました。ところがそのタレントがロープの操り方を間違えて、途中で帰ってきてしまったのですね。タレントは平謝り、ディレクターはNGを出しましたが森博士とそのスタッフは大喜びで、実はこの船は戻るのが大変だったのです。しかしその失敗をみて、なんだ、ロープをああすればよかったのか、簡単なことだったんだ、ということが分かった次第で、申し訳なさそうにしているタレントを、スタッフみんなでニコニコしながら慰めました。

 この辺のお話は深いですね。
 チルデンも「勝った試合からは何も学べない。負けた試合からこそ学べる」という、今ではあまりにも有名な言葉を、著書「ベター テニス」で述べています。

 また我々がトップスピンロブを打ちたい、ショートクロスを打ちたいと「漸」で練習をして、なかなかうまくいかない、しかしある日突然「頓」で、こうやったら簡単に打てるではないか、と気付く。

 「漸・頓」渾然一体や「念・忘・解」は、テニスの練習や試合にも通じるような気がしてなりません。

 と、今回も無理やりテニスにこじつけてしまったような気がしつつ、筆をおきます。
 ご精読有難うございました。

              2010年12月12日
 

2010年度 会長挨拶

  ……………………大阪府医師テニス協会会長  
                    江本敬(豊中市 江本医院)

省エネ物語

 我が家では車は軽四を重宝しております。2台あって、私が往診で狭い路地に入っていく時や、家内や子供が買い物に行く時など、街なかを走るには実に便利です。どこにでも停めやすいしガソリン代も節約できるし、いいことだらけですね。ただし事故の時に危ないのが欠点ですが、できるだけ大型車の前を走らない、特にタンクローリーの前は絶対に避けるように気をつけています。なぜならタンクローリー車は急ブレーキこそ踏みますが、絶対に急ハンドルを切ってはくれません。もし横転でもすると辺り一面火の海となって大惨事を招くため、追突すると判っていてもブレーキを踏むだけで「ゴメンネ〜」と言いながらぶつかってくるらしい。

 そういう事故を避ける意味もあって、我が家の軽四は2台とも「若葉マーク」に加えることのいわゆる枯れ葉マークすなわち「もみじマーク」も貼り付けてあります。マークだらけの車を見て町行く人たちが、どういう意味?といった顔をしても無視します。法律的には、対象者でなくても付けてよいことは確認済みです。

これらのマークにはメリットが一杯あって、まず走行中に他の車があまり近寄ってこないので、安全運転につながります。また狭い道ですれ違う時には、たいてい向こうでギリギリまで除けてくれるし、たまにこちらで除けてあげるというと、普通は知らん顔で通り過ぎるような大阪のおばちゃんでさえも、そんなに頭下げると危ないよと思うぐらい、すれ違う前から何度も何度も頭を下げて、最敬礼で愛想をしてくれます。また駐車場で止める時には、係りのおじさんが飛んできて誘導してくれますが、こういう場合にはあんまり上手に一発でピタッと停めたりしますと折角のご好意を無にすることになるので、ちょっとドジドジして見せることも肝要です。

 この若葉・もみじマークは、実は省エネにもつながるのです。ある時、思いきり省エネ運転をしてみて、どのくらい燃費が改善するかということを、ゲーム感覚で徹底的に試してみたことがあります。

まず、なるだけアクセルを踏み込まない、そしてブレーキも使わない運転を心掛ける。信号が赤なら、かなり手前からアクセルを離して惰性で走る。今の車はエンジンの回転数が下がってくると、大体800回転位を維持して燃料噴射を続けるようになっているので、平地ならアクセルを離してもどこまでもトロトロと走ります。この間ガソリン消費量はアイドリング時とほぼ同じですね。赤信号の手前からはこの調子でゆっくりゆっくりと信号まで辿り着くのですが、この時に諸マークが威力を発揮します。何もつけていないと後続の運転手をイライラさせて、フォーンを鳴らされたりビームで煽られたりと急かされますが、これら最強のダブルマークを見せておくと(まぁ、しゃあないか)ということで、ゆっくりとついてきてくれます。ということは実に、うしろに連なる車の省エネ運転にまで貢献しているのです。

他に省エネ運転ということでは、坂道を降りる時や信号で停止する時などはオートマでもシフトダウンして、出来るだけエンジンブレーキを多用します。エンジンブレーキで走っている間は燃費ゼロですから。そしてアクセルワークにも非常に気を使います。離した時をゼロ、一杯に踏み込んだ時を100%として、自分の右足は今どのくらいでアクセルを踏んでいるかを常に意識する。アクセルを23%から19%位まで戻し気味にしても車のスピードは意外と落ちないことに気が付くでしょう。ガソリンの消費量はアクセルの深さに正比例します。また荷物を出来るだけ少なくして、車を軽くしておくことも大事ですね。トランクにゴルフバッグを積みっ放しなどは、もってのほかです。燃料を満タンにするとそれだけでも数十kgは重くなるので、ガソリンタンクに半分以上は入れないようにして、たとえ面倒だと嫌がられても小まめにガソリンスタンドに通うという厚かましさも必要です。

 一番ハカが行くのは高速道路走行時です。時速80km/hの法定しかも経済速度で走るのと、120km/h以上で走るのでは燃費がだいぶ違います。オービスや覆面パトの心配もないし、少し早めに出発すればよいのであって、ゆっくり走行するとメンタルにもずいぶんと楽である、ということに気付きました。

 あと細かいことを言いますと、今までは運転席に坐るとすぐにイグニッションを回してエンジンをかけていました。そしておもむろに座席やバックミラーを調整したりシートベルトを装着しておりましたが、今ではそういったことを全部済ませてからエンジンをかけます。最近の車は暖気運転も不要らしい。

 さあ、この涙ぐましい努力でどのくらいガソリンが節約できたかというと、軽四のマニュアル車で12km/lが19km/lに、1,8トンあるワゴン車に至っては高速で7km/l台という今時犯罪のような燃費だったのが、10km/l以上に伸びました。枯れ葉マークの購入費などはすぐにお釣りが来ております。しかしお金の問題ではなくて、車に乗って空気を汚すからにはせめてもの償いのつもりで、今後もマークだらけの車でとろ〜りとろりと走ります・・・というよりも、ブイブイ走り回る若いパワーがなくなっただけのことかも知れませんがね・・。

 さて、前振りが異常に長かったのですが、テニスでも省エネはとても大事な目標だと思います。

1960〜70年台にかけて活躍したインドのデ杯選手クリシュナンの試合を、高校時代に大阪うつぼのセンターコートで観戦したことがあります。まだ石黒選手なんかが活躍をしていた時代です。当時はフィリピンにもアンポンやデイロというツワモノどもの壁があってなかなかインドと対戦することさえも難しい時代でしたが、その時は日本でデ杯対インド戦があったのでしょう。

うつぼでのエキジビションマッチでクリシュナン選手は、名前は忘れましたが当時全日本でトップテンに入るサウスポーの選手とシングルスで対戦しました。その試合の様子は今でも目に焼きついておりますが、日本の選手が大車輪でコート狭しと脱兎のごとく走り回っては、風車のごとくラケットを振り回して強打を放つのですが、相手には全く通用しません。かたやクリシュナン選手はゆったりと構えて必要最小限の、しかもスムースでよく力が抜けた動きでスーッスーッと相手をあしらう、言わば究極の省エネテニスをしておりました。サウスポー選手のひとり相撲で、クリシュナン選手はまったく何にもしていない様にさえ見えましたが、スコアはまったくお話にならない6−2、60でした。無論クリシュナンの勝ち。

 強い選手はみなそうですが、プレイに集中しつつもフィジカルにはリラックスをしています。アンティシペイションがよく、そしてフットワークも全身の動きも最小限で済ませます。そして走って行ってボールを捉えて打ち終わる前に、既に元のポジションに戻るための態勢ができているので、当方はどこに打っても相手はいつもそこで構えているような錯覚に捉われてしまいます。ではということで、さらに厳しいところを突こうとして、こちらが自滅してしまうという次第です。

 またパワーに関して言えば、鬼瓦のような顔をして首に縦スジを何本も出して目一杯力を入れたショットを打てば、それだけ威力のあるショットが打てるという、本能的な勘違いも当方にはあります。実は上半身の余分な力は、ショットの威力を削ぐ以外になんの働きもしないのですね。

 という訳で、これからはテニスも省エネに徹するよう心がけるつもりです・・なに、歳でパワーが無くなってきただけのことかも知れませんが・・・。

法的には問題ないと思いますので、各種大会ではシャツと帽子のワンポイントに若葉と枯れ葉マークを付けて、省エネ安全テニスを心がけることに致します。



 

2009年度 会長挨拶

        ……………………大阪府医師テニス協会会長  
                               江本敬(豊中市 江本医院)

 日頃は大阪府医師テニス協会主催の各大会にご参加、ご協力下さいまして、まことに有り難うございます。お蔭様で今年度も各種大会を予定通りに大過なく実施することができました。色々な大会に、初出場のドクターや若い先生方も多数ご参加下さいました。理事の皆様とともにこの隆盛を心から喜んでいる次第です。また今年も事務局のご尽力で、このように皆様のお手許に会報をお送りできることを嬉しく思います。

さて当テニス協会は団体戦やシングルス大会も開催しておりますが、大変好評で毎年日本全国から大勢の強豪にご参加を頂き、非常にハイレベルな大会となっております。今回の会報では、そういった遠来の凄腕出場選手の方々から「天然芝コート」につきましての原稿を頂き、その素晴らしさをアピールする特集を組みました。格調高い達文あり、叙情詩を読むがごとくの散文あり、あるいは抱腹絶倒の体験記ありと、起伏に富んだ素晴らしい芝コート賛歌シリーズになっております。
是非ご一読下さい。(「佐賀賛歌」のページ)

今回話題のテニスクラブは、佐賀県にある「グラスコート佐賀テニスクラブ」です。全日本医師テニス大会でも何度か優勝しておられる緒方周先生をご存知の方も多いと存じますが、この芝コートのテニスクラブは周先生のご尊父緒方勝徳先生が1975年に創設されました。引き継がれた緒方周先生は、私財をなげうってこのコートを維持管理されるとともに、国内大会は無論国際大会もここで開催され、なおかつ将来のウィンブルドン出場選手の育成にも尽力しておられます。大企業も景気が良い時には企業メセナなどと大きな顔をしておりましたが、景気が後退するにつれて、ここ大阪でもあちこちでテニスクラブまでが売り払われ、マンションなどに変わってしまっております。省みて緒方先生の全身全霊を捧げたこのご努力には、頭が下がる思いがすると同時に畏敬の念を擁かずにはおれません。また私どもにまで大変な歓待をして下さいまして、毎回ヤスキヨの片割れ横山やすしの物真似を見せてくれますが、何度見ても腹直筋が痙攣するまで笑ってしまいます。この会報のどこかにその写真がある筈ですのでご参照下さい。

話は少し泳ぎまして、急に俳句のお話です。1年ほど前にある女性から自費出版の俳句集を頂きました。私は俳句には全く縁がないのですが、それでも読み進むというと、なかなかに繊細かつ大胆な佳句がたくさん載っておりまして、充分に楽しむことができました。そして、本の後書きに引用されていた一句に思わず目が吸い付いたままで唸ってしまいました。

     今生のいまが倖せ衣被

広辞苑で調べてみると「衣被=きぬかつぎ」とは「里芋の子を皮のままゆでたもの。皮をむき塩などをつけて食べる」とありました。

 なるほど「今生のいまが倖せ」と大きく出ておいて、ではそのわけは?というと里芋がうまくゆがけて美味しいからというわけですね。そこのところのギャップが楽しい句です。しかし決してそれだけのことではありません。旬のものをその季節に美味しく頂けるという、思えば何ほどでもない日常のひとこまですが、その平凡な暮らしを送ることができる健康が有り難いし、些細なことでもいまの倖せを心から味わいつくしまた感謝するという、そのこと自体がまた素晴らしい。

 そして「今生の・・」ですからね、厳密に言えば今までの人生で味わってきたどんな倖せに比べても今が倖せであり、またこれからの一生涯で体験するであろうどんな倖せよりも「里芋を食べている」今が倖せであるということにほかなりません。物理科学でも哲学でも「時間とは何か」という問題は解決できていない筈でして、過去は記憶の中のことであり、未来は想像の上にしかない。従って自分の存在は確かに「いま」にしかないのかも知れませんが、それを割り引いたとしても「いまの倖せ」を全身で味わい感謝して生きるということが、これこそが人生の達人になる秘訣なのかも知れません。

なんにでも極端に影響されやすい私は、この句を知ってからというものはいついかなる時でも、まるで呪文のように「今生のいまが倖せ・・」と心の中で唱え続けております。仕事や雑用が忙しすぎても、それは大勢の方が頼って下さって有り難いことで、今が倖せ倖せ。魚が釣れないときでも、広がる青空と大海原に身を任せて今生の倖せ。体のあちこちに多少の故障はあっても健康でテニスが出来て倖せ倖せ。去る6月にグラスコート佐賀にお伺いした時は、残念ながら雨でテニスはできませんでした。しかし煙雨にしっとりと遠くまで拡がる芝のコートを眺めるだけでも大いに癒やされたものでして、この時にもビール片手に(今生のいまが、特級の倖せ倖せ・・)と心の中で唱え続けておりました。

・・と、大回りをしましたがやっと話題がここへ帰ってくることが出来たところで、拙文を閉じることに致します。ご多忙のところを割いてご寄稿頂きました選手諸兄諸姉に心から感謝を致します。有り難うございました。

                              20081210日 

<巻頭言 追記>(「2008年度 京都府・大阪府医師会親睦テニス大会のご報告」より)

   大阪府医師テニス協会主催の大会は
1)医師団体戦、

2)シングルス大会、
3)ダブルス大会、
4)
「大阪・京都」「大阪・兵庫」「京都・兵庫」の各府県の対抗戦、
5)大阪府・兵庫県・京都府 持ち回りで開催されます近畿医師テニス大会
  がありました。

  

永い歴史を持つ「大阪・京都」「大阪・兵庫」「京都・兵庫」の各府県の対抗戦は今年で終了致します。と申しましても下記の要領で3府県合同の懇親テニス大会を開催することになりましたので、発展的解消と捉えて下されば結構かと存じます。

2009年から、年に一度ですが大阪・京都・兵庫の3府県及び奈良や滋賀の選手の皆様にもお声かけをして、1泊テニス旅行を実施する予定です。このような合同大会とする理由はいくつかありまして、まずひとつは、3大会に分散するので各大会でどうしても参加選手数が少なくなること、また飲酒運転の問題があり懇親会が盛り上がらないこと、そして各府県幹部の方々の負担が大きいこと等が挙げられます。特に大阪府医師テニス協会では団体戦やシングルス大会という特別なそして大変好評な大会を運営しておりますので、平均して毎年1回やってくる対抗戦の主管が3年に1回になれば大きな負担軽減になります。こういったことから、試みとして来年度まずは大阪府が主管をして、第1回目の3府県合同懇親テニス大会を開催致します。

予定では土曜日の夜、飲みかつ食べかつテニスへの想いを語り合い、また翌日の日曜日は心ゆくまでのテニスプレイで、二日にわたってテニス漬けになって共に過ごして頂きます。非常に充実した親睦の会になるのではないかと今から期待し、また楽しみにもしております。開催時期はゴールデンウィーク明けあたりを考えておりますので、選手各位はこのホームページを時々覗いていて下さい。そして是非ご参加下さいますようお願い致します。また今後とも当テニス協会の行事にご協力を頂きますよう宜しくお願いします。
 

2008年 会長就任の挨拶 

大阪府医師テニス協会会長 江本 敬


 平成19年4月から大阪府医師テニス協会会長をおおせつかりました江本敬(タカシ)です。ホームページ新設を記念致しまして、ひとことご挨拶申し上げます。天津良孝元会長、岡征雄前会長に続きまして、なんと見劣りのする江本現会長ではありますが、会員皆様のご協力のもとに微力ながら少しでもお役にたてればと頑張って参りますので宜しくお願い致します。

 安倍総理は「美しい国」をキーワードに本を著し、また就任演説を行いました。安倍内閣が死に体となってからは失笑を買っている「美しい国」ですが、私はどこがおかしいのかよく分からず、別に悪くはなかろうと思っておりました。しかしこの就任のご挨拶を書こうとして気付きました。

「私は府医テニス協会会長就任に当たり、これを美しいテニス協会にしていきたいと思います」

変ですねやはり。「美しい」では理念にさえもなり得ないことが分かります。

 これまで先輩諸氏が営々と築いてこられた大阪府医師テニス協会の活動はいま、非常な隆盛のもとにあります。各種の大会に大勢の会員の皆様がご参加下さいまして、それぞれが良い大会に育っていっております。これもひとえに会員の皆様はじめ理事の諸兄諸姉、わけても事務局としてお世話を頂いております原文雄、統子ご夫妻のご尽力のたまものであります。全部の大会の案内から実行、そしてホームページの管理まで、実費以外は全くのボランティアで貴重なお時間を割いて頂いております。原ご夫妻なしでは現在の活況は有り得ませんでした。一会員としましても感謝の気持ちでいっぱいです。

 現在大阪府医師テニス協会が主管している主な大会は次の通りです。
公式戦である府医ダブルス大会、親善試合の対兵庫対京都戦に加えまして、数年に一度近畿医師大会を主管します。また一昨年度からシングルス大会が復活を致しました。さらに昨年度からはこころみに団体戦の大会を開催しましたところ、シングルス大会同様、青森から熊本まで日本各地から多数の名選手のご参加を頂いたこともあって、大変な好評のうちに無事終了しました。

 このように当テニス協会は非常に活発な活動を行っている、日本でも稀有な医師テニス協会と自賛しております。現在のままでも充分に「美しいテニス協会」ではありますが、今後若い選手諸君のご協力をも頂き、さらに活性化と若返りを図って参りたいと考えておりますので、宜しくお願い致します。

 以上をもちまして甚だ楚辞ではございますが、就任のご挨拶と致します。

                         平成19年8月30日

 


ラケット今昔(2007年度会誌巻頭言より)

大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄


ラケット今昔

近頃はテニスショップを訪れると店頭には多種多様のラケットが並び、 どれを選ぶか頭を悩ませる時代です。 モデルチェンジのペースも速く1、2年使い慣れたラケットと同じものを探すと既に製造中止で新しいモデルに代わっている・・・・ こんな経験をお持ちの先生も多いことと思います。

“大学に入ったら何か運動クラブに入れ、年取っても出来るのはテニス”と入学時に父が買ってくれたのが写真1、2の “フタバヤ”です。フレームのどこにも製造社名や製品名も無く、ただスロートに“FUTABAYA”と記されているだけです。 我々はフタバヤの“無名”と呼んでいましたが、後に一世を風靡した“スーパースピン”の原型モデルだったようです。 その頃はラケットを選ぶにも店頭には2、3種類しか置いてない状態で、他のメーカーは“KAWASAKI”位しかありませんでした。 当時垂涎の的だった全竹製の“ミリオンストローク”もありましたが、高価で我々には手が届きませんでした。
写真1 写真2

卒業後は10年間のブランクがありました。大阪労災病院でテニスを再開した頃はまだラケットは木製でしたが、 その後素材は目まぐるしく変わりました。アルミニウム製から金属カーボン複合になったヘッド社“マスター”、 ウイルソン社の金属製“T−3000”、ヨネックス社の化学繊維製“R−22(これは名品)”、デカラケの別名が付いた“R−7”、 厚ラケの走りとなったウイルソン社“ハンマー”等と各種素材のラケットが登場して現在に至っています。 最近ではグラファイト、カーボン、ノナカーボン等との呼称が主役のようですが材質に素人の我々に詳しいことは分かりません。 店員の薦めや、友人の評を参考にして買っている状態です。ただ最近はラケット全体の性能が上がり、どれを使ってもそれなりの打ち方が 出来るようです。“打球はラケットよりガットの種類とそのテンションで決まる”と言われながらも腕の悪さをラケットの責任に転嫁して 貯まった結果を写真3以下に示します。これでも三分の一くらいです。これに懲りずに“次ぎはどのラケットにするかな???” と考えるのもテニスの楽しみの一つではありますが・・・・・・・・・。
写真3
写真4
写真5

 


審判(員)(2006年度会誌巻頭言より)

大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄


審判。
辞書で引くと「物事の是非・適否・優劣を判定する事」
「スポーツ競技などで規則への適否・優劣・勝負を判定する事。またはそれをする人」とあります。
ご存知のようにスポーツの世界では競技の種類によって審判(員)の呼び方が
アンパイア(Umpire)、レフェリー(Referee)、ジャッジ(Judge)、主審・副審・行司等と変わり、
審判方法も一般的な笛(ホイッスル)から音声・旗・身振り・減点法・軍配・機械判定等があります。
町の公園や小学校のグラウンド等で行われている少年野球やサッカーにも必ず一人は審判が附いています。

ただテニス競技では、現在大部分の試合が審判なしのセルフジャッジです。
JOP(Japan Official Point)の掛かった試合でも然りです。
いつの頃からかセルフジャッジが主流となり、
「Best of three set match・・・ ・・・serving play ! 」を経験された年代の方々には寂しい限りですが、 酷暑・酷寒の時期の負け審判が無くなった事だけは有り難いとしましょう。

セルフジャッジでは「疑わしきは相手の有利に」の精神が原則です。
しかし中には「疑わしきは自分の有利に」、更に「イン」であってもライン際のボールはすべて 「アウト」と判定する何々流ジャッジとかがあります。
最近ではネットを挟んでジャッジやスコアーを巡って揉めている光景を度々目にします。
スポーツマンシップに欠け、あまり誉められた光景ではありません。
不愉快で悔しい思いをされたり、揉め事に集中力が切れて大事な試合に 負けてしまった経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

最近ではVTRの画像がその場の判定に取り入れられるようになった競技もあります。
このようにVTRまで登場する審判の世界に、草トーナメントであれ  セルフジャッジで試合を行う事は(勿論国内外の主要大会では審判および機械判定が取り入れられて いますが)テニスプレーヤーには紳士的な方が多いと考えるのか、 判定はプレーヤー自身に任せる曖昧なスポーツと考えるのか・・・。
セルフジャッジの功罪を一考する時期に来たのかも知れません。

とは言いながらも、今日も「テニスの友」をバッグの片隅に、いざコートへ!

 

1A・4CON(ワンエー、フォーコン)
2005年度会誌巻頭言より)

大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄

会員の先生方におかれましては新しい年を迎えられ、日々テニスの練習にお励みの事と思います。 今年が平穏無事な一年間である事を願ってやみません。

さて1A・4C。テニスの試合に勝つ魔法のオマジナイ?です。実は大学入学時のテニス部新人歓迎会での部長の言葉です。 英単語の頭文字(1つはこじつけ)から採ったものです。どんなスポーツの試合でもこの1A・4Cが無ければ勝てないと、 事ある毎に言われました。

AはAnticipation(予想、予測)。試合状況から相手の心理状態を読み、次の打球の種類とコースを予測して一歩早く走り出す。
4Cは一番目はConcentration(集中)。試合に集中する事。どんなに劣勢であってもゲームが終るまで諦めずにボールを打つ。 集中力が途切れると所謂「切れた」状態となります。
二番目はControl(制御、抑制)。接戦でものを言うのはボールのコース。 打って打って打ちまくるのも一つの試合の方法です。しかし、打つときは打つ、守る時は守る。自分を精神的に制御する事ができれば必勝です。
三番目はCombination(団結、コンビネーション)。強烈なドライブボールも打つが、時にはスライスやロビングも打つ。長いボールも打て ば短いボールも打つ。緩急自在のベテランの域のテニスが出来れば試合の面白味も数倍になります。特に大事なのがダブルスでのコンビネーション。自分ばかり が目立とうとすると駄目。パートナーを信頼しパートナーに決めて貰う積もりで試合をする事が大事です。1+1が3にも4にもなります。
最後のCはこじつけですが、読んで字の如く日本人の好きな言葉で「根性」です。

 いずれも文章に表せば何方もご存知の事ですが、私の様な凡人は試合中にはころっと忘れ、負けた後で反省しきりです。 
    平成17年 1月吉日
 


会長挨拶(2004年度会誌巻頭言より)

大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄

2004年、オリンピックイヤーの新春を迎えられ、会員の皆様方に置かれましては決意も新たに日々練習に励んでおられる事と存じます。
さて今年はオリンピックが大会発祥の地であるアテネで8月中旬から開催される記念すべき年であります。野球、柔道、水泳、女子レスリング、マラソン、ソフトボール等メダルが期待されている種目に注目が集まっています。
野球の長嶋ジャパン、マラソンの野口選手のように既に出場が決定している方々もありますが、出場権を目指しての国内、アジア予選の厳しい戦いに挑んでいる方々も居られます。出来るだけ多くの種目で出場権が得られるようにと応援をしている今日この頃です。
しかしテニス界を振り返って見ますと、オリンピックの予選はどうなっているのか、日本から誰が出場するのか、新聞紙上にも全く載っていません。紙上を賑わ すのは我が国四大プロスポーツとも言える野球、サッカー、ゴルフ、大相撲の話題ばかりです。寂しい限りです。テニスでは全国のファンを魅了するような大 会、選手が少ないのも事実ですが、世界に通用する選手をジュニアから一貫して育成し、また観客動員が出来るような大会を開催するというテニス会全体として の努力不足も否めません。現状ではジュニアの育成はクラブ任せのようです。日本テニス協会或いは都道府県テニス協会単位での育成機関の設立が望まれます。 各地でテニスクラブが閉鎖の憂き目に会い、企業所有のコートが駐車場に替わるこの時勢下では無理なことなのでしょうか?
小生はクラブまでの片道30分を足腰の強化にでもなればと自転車で往復しています。(走ればよいのですがバッグを担いでのマラソンは心臓に悪いようで す。)この間に小学校4校、中学校2校のグランドの横を通ります。頻繁に野球やサッカーの練習は目にしますが、テニスの練習にお目に掛かった事はありませ ん。コートの確保が難しいことがその理由かもしれませんが、公営の金岡コート(オムニ16面)でも、練習している小・中学生はソフトテニスです。
それに対して、小生の勤務先近くの江坂テニスセンターでは、最近早朝7時からテニスバッグを担いだジュニア選手の姿が目立つようになりました。遅ればせな がらジュニアの育成に本腰で取り組みだしたのでしょうか?また、小生の所属するクラブでもジュニアのスクールが盛んに行われています。中学生が中心です が、とても我々が対抗できないようなハイレベルです。もし、試合すれば必ず負けるのではないでしょうか、それも1ゲームも取れずに・・。ジュニアの年齢別 では関西でトップクラスのランキング選手もいるようです。この中から将来の日本のテニス界を背負って立つ選手が輩出される事を期待します。
さらにテレビのアニメ番組の影響もあり小学校低学年のテニススクールも盛んになってきたようです。日曜日のクラブハウスは付き添いの両親を交えてその賑や かな事、うるさい事。もしかしたら将来ウインブルドンのセンターコートに立てる選手が育つ可能性が無きにしも非ず!と期待しながら、私も老体に鞭打って練 習に励んでいる昨今です。

 


大阪府医師テニス協会(連盟)会報の発行を祝して
2003年度会誌巻頭言より)

大阪府医師テニス連盟会長 岡 征雄

この度、大阪府医師テニス連盟会報を発行する運びとなりました。 以前「テニス連盟だより」として発行されていたものを5年ぶりに改名、改装の上、 会員皆様の許にお届け致します。
 顧みれば連盟も50年近い歴史を有するようになりました。 発足当時の詳細な経緯は存じませんが、小生が卒業間もなく府医大会に参加させて頂いた 昭和40年代前半には、天津良孝先生が会長として活躍しておられました。 既に兵庫県医師テニス協会との対抗戦が行われており、 神戸の王寺公園テニスコートでの試合に若輩ながら参加させて頂いた記憶があります。 その後、府医連盟の年間最大事業である「大阪府医師テニス大会」の開催コートも、園田クラブ、 服部緑地公園、長居運動公園と移り、現在ではマリンパーク北村に落ちついています。
 一時期は府医大会の参加者が減少し、大会そのものの開催が危ぶまれた時期がありました。 しかし関西国際空港が開港された平成6年10月に天津前会長のもとで全日本医師テニス大会を 府医連盟の主管で開催する事になりました。準備期間は2年間に及び、担当役員を始めとして多数の 会員の方々にお手伝い頂きました。3日間の大会は好天にも恵まれて成功裏に終る事が出来、 参加者からも感謝の言葉を頂く事ができました。これを機に会員の結束力が更に高まり、 以後の府医大会の参加者も暫増しています。最近では安定して80名近くの先生方に参加して頂いていますが、 当面100名を目標に広報活動する予定です。
 また、京都府、兵庫県を含めた3府県医師会対抗戦が近畿医師テニス大会に昇格し、 新たに京都府医師会との親善試合も設けられ現在に至っています。
 テニス愛好家の嗜好が変わり、テニスクラブ閉鎖の噂も絶えない昨今ですが、今後は若い先生方の参加をつのり、府医連盟の更なる発展を計りたいと思います。
 最後になりましたが誌上をお借りして、府医連盟を多岐にかつ長期に亘り御指導頂きました兵庫県、京都府両医師テニス協会の諸先生方に心よりお礼を申し上げます。また連盟誌の発行にご尽力を頂いた理事の皆様に深く感謝致します。
                        平成14年 12月吉日