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< 2024年 巻 頭 言 > 集めたものと与えたもの 大阪府医師テニス協会会長 (大阪府医師会テニス部部長) 寺田 哲也(大阪医科大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科) ![]() 毎年12月に大学テニス部学生の追い出しの会があります。 |
< 2023年 巻 頭 言 > テニスについて語るときに僕の語ること 大阪府医師テニス協会会長 (大阪府医師会テニス部部長) 寺田 哲也(大阪医科大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科) ![]() 昔と今 テーマ:劣化 なかなかの良い題名だと思われませんか。 |
< 2022年 巻 頭 言 > テニスはWebでは出来ません 大阪府医師テニス協会会長 (大阪府医師会テニス部部長) 寺田 哲也(大阪医科大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科) ![]() これまでの日常が戻ってくれば良いなと思いながら新年を迎え、この会報を皆様にお届けできるのは、新年あけてひと月が経ったころだと思います。 |
< 2021年 巻 頭 言 > 会長就任のご挨拶 大阪府医師テニス協会会長 (大阪府医師会テニス部部長) 寺田 哲也(大阪医科大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科) 有形無形のご指導をいただいている江本先生、原先生のようなカリスマ性とリーダーシップを兼ね備えた歴代会長の後任として、文字通り何も持たない私が、会長職を引き継がせていただくことになりました。どうぞ皆様よろしくお願い申し上げます。 大阪医科大学硬式庭球部に籍を置き、大学時代はクラブ活動のみに精を出していました。クレーコートで勝つためのテニス、伝統的なフォアハンドのみで戦うスタイルを諸先輩から徹底的に叩き込まれ、『バックハンド?なんですかそれ?打ち方知りません』そんな選手でした。すべてフォアハンドに回り込む。回り込み切れず自分の背中をボールが通過しても、先輩からかけていただける言葉は、‘ナイスラン!ナイス回り込み!’。自分自身が先輩となり、後輩を指導する時にも、自分が教わった通りの指導を後輩に行い、下半身強化とフォアハンドのみ練習する。その結果強くなった人もいれば、そのスタイルに馴染めず実力を開花することが出来なかった後輩もいると思います。馴染めなかった後輩諸君、すいません。多様性がなかったなあ、と30年以上経った今、反省している次第です。その後時代は流れ、現在の母校の後輩たちはバックハンドを駆使した自由なテニスを謳歌しており、多様性は自然に育つものなのかと安心して見守っています。 『若手医師への世代交代』 大阪府医師会テニス部の存在意義は、若手にもシニアにも楽しいと思っていただけるイベント開催にあると思っています。 医師という団体のテニスクラブである以上、新型コロナウイルス感染症の動向とクラブ活動を関連付けないわけにはいきません。中止を余儀なくされた大会も多く、今後の大会運営も流動的要素は沢山あります。でも、いつか落ち着き収束を向かえるはずです。静かに、その時を待ちたいと思います。 |
< 2019年 巻 頭 言 > 税金で造る公営コートはジュニアのためにもハードじゃなくてオムニを造ってあげてチョーダイ、 ハード作るなら屋根を付けてね、ちゃんと塗り替えてね…… 大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 原 文雄(池田市 文月会 原医院) ![]()
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< 2018年 巻 頭 言 > 2018年全日本医師テニス大会 様式を見直して大阪府が主管します 大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 原 文雄(池田市 文月会 原医院) ![]()
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<2017年巻頭言>ヒモのようなモノ事件、嗚呼、八甲田山
……………………大阪府医師テニス協会会長(大阪府医師会テニス部部長) 原 文雄(池田市 文月会 原医院) ![]() 母校テニス部の監督を拝命しています。個々の現役部員達は皆さん良い子ですが、たまに見に行くといろんな非効率性が目について小言が出そうになります。テニスを語るとウザいと嫌われそうなので、今年も柔らかい小噺にしてみます。 ここ数年の正月は北海道のルスツスキー場で迎えています。年末までに確実で十分な積雪がある事、新千歳―大阪空港間の遅い便を取れば最終日も正午過ぎまで滑れる事が魅力です。最近の潮流ですが、スキー場全体は管理区域と非管理区域と滑走禁止区域の3つに区分されています。管理区域は旧来でいうゲレンデです。怪我しても無料でレスキューが拾ってくれます。滑走禁止区域は滑って行ったら、人の足では帰って来られない所です。確実に遭難する場所ですね。非管理区域とは主に林の中です。自分の判断と力量で滑って下さい。怪我や遭難して救護隊が出た場合は実費を請求します・・・・と書いてあります。こういう場所が増えてくれて有り難い限りです。ほぼ全山を満喫できるようになりました。昔は林の中も必死で“滑走禁止”って書いてありました。未圧雪、新雪を楽しみたい外国人達が非常に多いので、彼らを止める事が出来なくて、経営側が禁止を諦めた結果のなし崩し策のような気がしています。北米などの海外リゾートを見習ったとは思えない所が少し寂しくもあります。 四国徳島の生まれ育ちなので、大学で大阪に来て1年生の冬に初めてスキーをしました。運悪く最初の指導者は同級生でスキー部のアルペンレーサーでした。ボーゲンも出来ない内から“曲がるな!止まるな!!まっすぐ突っ込め!!!”とだけ教えられました。“危なくなったら勝手に曲がる!!”というのが彼の理論でした。自分の限界スピードに慣れなさいというのが彼の本意だった事は後日分かりましたが、曲がる度に怖い思いをして寿命が随分と縮みました。腓骨骨折も含めて何度も文字通り痛い目に会いましたが、社会人になる頃にはどんなに急な斜面でも躊躇せずに素早く滑り降りる習慣がつきました。しかしながら子供の頃からは体が慣れ親しんで無い偽物感、ギコチナサを今でも引きずっています。飛ばしていても“何かが違うな・・間違ってるな、下手やな・・・”と常に感じています。そんな私ですが不思議な事に新雪、深雪は別人の様に楽に滑れます。多分、スキー板をちゃんと踏み越せなくて先端を押さえ込めないのが、逆に浮力として作用してるのかな??と自分では分析しています。結果として厳冬の未圧雪スキー場非管理区域は私にとっては天国です。 我が家は嫁さんと娘2人姉妹の4人家族です。伊丹空港が近いので子供達が学校の春休みしか行けない頃は東北のスキー場を愛用していました。3月下旬でも雪がある事、朝イチで飛べば昼から滑れる事・・最終日も昼まで滑れる事・・というのが理由でした。蔵王や安比は普通でしたが、田沢湖や大鰐温泉となると関西人は珍獣扱いでした。Smokedたくわんである“いぶりがっこ”にも慣れるほど東北に通った最後に、山スキーで有名な八甲田スキー場に行きました。前振りが長くなりましたが、次からが本編です。 インターネットも未熟な時代だったので、情報も無いままに興味本位で八甲田スキー場3泊4日ツアーを買いました。長女が中学生、次女が小学校の中学年でした。八甲田山はスリ鉢を伏せた様な丸い山で、その裾野斜面のごく一部にゴンドラ一機とリフト二機の小さな八甲田スキー場がへばり付いていました。到着当日は晴天で午後だけで八甲田スキー場には飽きてしましました。折角だから翌日は山スキーをしたいと、宿泊先の山荘亭主にお願いしました。宿には踵部分の固定を解除してノルディック風にも可変式のビンディングを付けたスキー板や、当時まだ珍しかったスノーシューなどが並んでいました。子供達も小さく、登坂用具無し、ゲレンデスキー用具しか持っていない・・・と不安を漏らした所、血色抜群のご亭主は満面の笑顔で自信満々に答えました。“大丈夫です!!ガイドがご家族の前後に付いて登りはラッセルします。板に関して奥様は自前分、ご主人が子供さんも含めて3人分を持ちます。ヒモのようなモノを用意してありますので、背負って運びます!!” 宿の備品を見た私は持つ、運ぶ、背負う・・・等のkey wordから、我々レジャースキーヤーには未知の、極めて特殊な運搬用具を想像しました。 翌朝、山スキー当日はガスも立ち込めて、結構な吹雪でした。三合目がゴンドラ最終駅でそれより上は山頂まで自力での長い登りです。客は30人程度、ガイドは8人でそのうち2人が我が家4人の担当です。朝一番にゴンドラ駅を降りると、慣れた客達とガイド達はサッサと自分のスキー板やスノーボードを専用のバックパックに固定して、スノーシューを履いて登りだしました。一部は先ほどの踵固定解除式ビンディングスキーの底にアザラシ皮でできた滑り止めを付けて歩きだしました。私たちの担当は“今日はそよ風も吹いて絶好のスキー日和です”と言いました。“この吹雪のどこがそよ風やねん!!”とは思いましたが、言葉は飲み込みました。人間は違いを認め合う事が肝要と自分に言い聞かせました。 “さあ、これで板を背負って頂きます”と言って取り出した用具は山スキー専門の“特殊なヒモのようなモノ”のはずでした。実物を見てビックリ、驚愕、茫然、失望と感覚は変わって行きました。“チャウチャウ!!日本語、間違えてる!!人間として違いが認められない!!それば断じて”ヒモのようなモノ“では無い!!それは単なるヒモや!!!!と関西弁でツッコみました。宿の亭主を恨みましたが、氷点下烈風の雪原では後の祭りでした。 かくして嫁さんは1人分2本、私はゴルゴダの丘を歩くキリスト様風、あるいは八ツ墓村風に3人分6本のスキー板を背中にヒモのようなヒモで縛り付けられました。先行ガイドがラッセルした足跡を普通のスキー靴で長女、次女、嫁さん、私、後方ガイドの順にツボ足します。時折先行と後方のガイドが交代しながら永遠とも思える長い時間登りました。途中本物のクレバスも見えたのは唯一の良い思い出です。やはりスキー板6本は重い、ヒモが食い込んむ、標高は上がる、気温は下がる、呼吸は苦しい。シベリア抑留ってこんな感じ???とも思いました。当初はキャッキャ言いながら樹氷を楽しんで遠足気分だった子供達も、7合目くらいから黙り込みました。その状況下でも前進するしか選択肢が無い事を理解した、幼い彼女達を褒めてやりたいと今は思っています。 皆から随分と遅れて山頂の避難小屋に辿り着いたのは正午をかなり過ぎていました。 小屋内はどこから集まったか??いつ追い抜かれたのか??という程の人数が休息を取っていました。ガイドに急かされて息も乱れたまま、スキーを履きます。間もなくして広大な白銀の斜面が見えた時は、景色の雄大さに感動しました。先行する各人が思い思いのシュプールを描く様は、大海原で遊ぶイルカの群れを連想させました。いろいろあったが来て良かった・・素晴らしい・・・この時は登りの苦労が吹き飛びました 最後尾で滑り出した私達は期待したより雪が硬い事に気づきました。どうやら八甲田山でも3月下旬ともなると、前日の好天で溶けた雪が氷結する様子です。粉雪を舞い上げて滑るはずが、部分的にはガリゴリのバーンになってました。それでもしばらくは気分良く斜面と戯れてましたが、5合目くらいから事情がガラリと変わりました。 気温が上がって雪が緩み出しました。溶けだした未圧雪斜面の手強さに初めて気づきました。体重の軽い子供達は器用にガイドに付いて行きますが、私と嫁さんのスキーは全く滑らなくなりました。麓に近づくほどに斜度が減るほどに、早春の午後の雪はズボズボ埋まります。転倒してびちゃびちゃ、起き上がるにも難儀する重い雪で濡れた四肢は冷えてきます。誇張抜きで、“死ぬかも知れない・・”と感じるほどに疲れ果てて、やっとこさ滑り降りた所は八甲田山麓を周回するバス停がある休憩所でした。立派な銅像が立っており、ここで多くの日本陸軍兵士が凍死したと記してありました。これが高倉健さんの“天は我を見放したか!!”という台詞でも有名な“雪中行軍遭難記念像”だったのは偶然にしても偶然過ぎる笑えないオハナシでした。 ![]()
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2015年度は錦織選手の参加や衛星放送枠の拡大で、発足2年目のInternational Premier Tennis League(IPTL)が日本でも賑わいを見せました。男子単複、女子単、混合複、引退男子単の5本で獲得ゲーム総数を競う試合です。テニス通の知人の多くも神戸での大会を現場で観戦しました。“面白かった!!普段と違う観点で興奮できた!!”と概ね好評でした。テレビ画像で見る範囲でもエクシビションだからこそ、ATPやWTAの熾烈なpoint raceから解放されたトップ選手達のテニス自体を楽しむ姿勢に好感が持てました。レシーバー側が指定したポイントを取ると2得点と換算されるpower pointはゲーム性・ギャンブル性を高めて上位選手が負けた場合の言い訳・逃げ道を用意している周到さを感じました。この様式では各種の時間短縮策が試行されています。Shoot outと称するsudden deathの
tie break, 全試合ノーアド、レット無し、チェンジコート省略、秒数短縮制限・・・・などなどの改変が取り入れられています。またIPTLとは全く別に、米国を舞台として古くからWTT(World
Team Tennis)という団体戦も興業されています。こちらは現役プロのみで男子単複、女子単複、混合複の5本で獲得ゲーム総数を競う様式です。WTTも時間短縮策はIPTLと類似ですが、各試合5ゲーム先取を採用しているのが大きな相違です。
各々の時短策について私見を述べます。公平は善で不公平は悪だと思っています。“運”は人間の意志や力が関与できない領域です。 レット無し-----賛成です。というかレットは廃止すべきだと思っています。レットとは主に天然芝でのテニス創世記の遺物だと思います。当時は支柱やワイアの材質、強度の加減でネットは強く張れなかったと推測されます。ユルユルネットのコードボールは速度が吸収されてネット近傍にポトリと落ちます。ネットさえ超えればレシーバーは対応できずに、圧倒的なサーバー有利になっていたという歴史背景からこのルールは作られたと私は思っています。現在のネットの張力ではコードボールの行方は“運”任せです。サーバー、レシーバーどちらの利益・不利益にもなり得ます。レット廃止しても、運次第で恨みっこ無しで不公平は発生しないと思います。 トスアップすれば必ず打つ・・・賛成です。トスもテニスの技量の内の重要な要素です。ラケットの通過する位置にボールを置きにいく作業ですね。サーブとはトスアップした時点で開始されていると解釈すれば良いだけです。トスを失敗すれば1回分のサーブ(1ポイントではありません)を失うというのが合理的です。トスを失敗すれば何回でもやり直して良い・・というルールの方がサーバー優遇偏重で不公平であると私は思います。 チェンジコート省略・・・賛成です。規則で90秒ないし60秒以内と規定されているチェンジコートですが、意外とそれ以上の時間を費やしていたりします。日光、風向き、背景などでの有利不利は確かに存在します。1試合の半分を片面側で過ごすように設定すれば良いだけですね。現在基本で試合開始直後を例外として合計2ゲーム終了後にしている作業を合計3ゲームないし合計4ゲーム毎に変えてみるというのも一考の価値があると思います。室内は勿論ですが、屋外でもチェンジコートの回数は少ないに越した事はありません。 ノーアドに加えてtie-breakもsudden death・・・まあここまで来れば運次第ですからジャンケンみたいなsudden deathで良いと思います。興奮は凝縮されるし、意外や意外・・結局精神面も含めて長い期間で見れば、単純に強い方が勝ちます。 WTTの5ゲーム先取・・・意外と使えます。おススメです。4ゲーム先取でやる違和感はあまり生まれません。忙しい時に一度やってみて下さい。1−1終了時点から始める6ゲーム先取だと思えばなおの事、普段の感覚でテニスできます。 Shot clock・・・・ボールがdeadになってから15秒経過時点で第一サーブが放たれていないと自動的、機械的に警告音が響くシステムです。類似の制度はバスケットボール、ハンドボール、はたまた将棋や囲碁でもありますがテニスでは、今までやりたかったけど出来ていませんでした。釈迦に説法、耳にタコですが、公式の試合ではボールがdeadになってから次の第一サーブが放たれるまでの“ポイント間”は20秒と規定されています。これは世界のツアーレベルから日本のJTAルールブックまで普遍です。しかしながら現実は理想に追いついていません。球拾いに手間取った・・観客が動いた・・・拍手が鳴りやまなかった・・・などなどの情状酌量で20秒を超えた場合もサーバーに対する警告は稀です。時間も厳密には計られていますが、誰にでも見える形にはなっていません。IPTLの興業では15秒経過時点で自動的に警告音がボーーン!!と会場全体に鳴り響きます。20秒経過時点で第一サーブが放たれないと機械的にレシーバーの得点となります。TV画面から見る範囲では選手もトッププロばかりですから、“意図的に”手間取っても15秒の警告音と同時くらいにはサーブを放っています。この時に雑音や嬌声が上がっても、視野に入る観客が動いていても問題は無さそうに試合は進行しています。“へエーー!!やろうと思たら出来るヤン!!”というのが素直な感想でした。厳密な20秒って本当に短いですね。私達が遊びでチャッチャカとゲームしてるのと同じくらいのテンポで、無駄なくポイントは重なって行きます。見ていて爽快です。自分でもちょっと真剣に試合すると、20秒を超えてる場合があるかも知れないと反省しました。ボールdeadになってから15秒経過時点で警告音が情状酌量無しに全自動的に鳴る・・・非常に良いシステムだと感心しました。ポイント間の長い医学生大会などは特に参考にして頂きたいと思います。医師会の大会でも、サーブの構えなどで“本人はルーティンと思っているであろう動作”で時間を浪費している選手が時折見られます。他の選手の時間を奪う“迷惑行為”になり得ますので、是非お止め下さい。 最後に話題は変わりますが,hawk-eyeと呼ばれる弾道画像解析システムのお蔭でテニスは随分と気持ちの良い競技となりました。高額な設置費用が難点ですし、本当に全部が正しく解析できているとは限りません。しかしラインジャッジで揉めるのは不毛です。コートの表面素材によってはボールマークが残るにせよ、終わってしまった過去を論じる根拠が選手と審判の“主観”ではお互いに納得できる筈もありません。新しい判定基準を手に入れたお蔭でライン際の不確実性と、選手、審判、観客全体を含めた人間側のストレスが激減しました。改革改善は常に必要ですね。 日本医師テニス協会も2015年度に矢住前理事長の任期満了に伴う退任により、大石新理事長が就任されました。大石執行部の一員として原文雄も副理事長の責を仰せつかっております。江本敬大阪府名誉会長と山田修大阪府理事も日本医師テニス協会理事を兼任して頂いております。会員各位も全日本医師および大阪府大会への積極的なご参加をお願い申し上げます。いずれの大会もご要望、ご希望などありましたら大阪府理事までお報せ下さい。大阪府内部の意見も日本医師テニス協会全体に反映させやすい環境にありますので、どんなご意見も幅広く検討させて頂きます。
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<2015年巻頭言> 就任挨拶
原 文雄(池田市 文月会 原医院) 2014年は錦織圭選手の快進撃に乗って、日本のテニス界全体の気分が高揚した年度となりました。彼のATPランキングの上昇度合いは、傍目にも分かる実力の増進としっかり相関していました。何の不思議も魔術も無い現実味に溢れた躍進振りが印象的でした。“強い者が勝つ”“勝つためには強くなるしか無い”というプロの単純な真理を見せてくれました。 大阪府医師会テニス部(大阪府医師テニス協会)では、4月に2006年から4期8年間会長を務められた江本敬先生のご勇退に伴い、個人的にも30年以上の親分子分関係を頂いている原文雄がその職務を継承させて頂きました。ご自身では語る事の無い江本前会長の全能多才ぶりをご紹介します。無類の読書家であると同時に、本協会の格調高い巻頭言の数々を読めば自然と分かりますが、正式な紀行本を出版された優れた文筆家です。ご趣味は多岐に渡りますが、スポーツ全般ではゴルフとスノーボードが先ず挙がります。お嬢様の一人は元プロ契約を持つスノーボーダーで、ご自身も地域大会で優勝歴をお持ちです。海釣りは現在も旬の状態です。釣果を大切にされるため、外科で取った杵塚で包丁を振るわれます。研究熱心な美食家ですから、ご自身の料理にもその味を反映されます。巧みな話術は人を惹きつけますし、社会人落語日本一決定戦を主催する池田市の大会に出ても戦えるほど完成された落語も演じられます。音楽も声楽を基礎として、ピアノやギターの弾き語りまで余裕で披露されます。現在は小唄と三味線の御稽古が毎週のルーティンです。奥様と共に洒脱な和装で歩けば街ゆく人達は振り返ります。優れた統率力で本協会を引っ張り、大阪の顔として2013年度全日本医師テニス大会会頭を務められました。恒例の大阪府主催大会ではレフェリーも兼ねて運営に当たられます。本職のテニスではキックサーブと伸びるバックハンドを軸にプレーを組み立てるオールラウンドな正統派です。全日本医師大会でもダブルスで大阪、福岡と現在2年連続優勝されています。原家が内職でやっていた当協会事務局は、任期中に委託新設を主導して下さいました。本当に8年間有難うございました。今後もご意見番、お目付け役、選手として本協会活動へのご参加を約束して頂き心強く思っております。江本前会長の大きな業績をお借りして、原文雄も当協会の今後の発展に寄与すべく努力致します。 昭和56年春、“鈎引きは、息をするな!!”という名言を吐かれた、元祖神の手を持つ鬼教授が主宰する北摂医科大学の消化器外科に、私はピカピカの新兵さんとして入局しました。まあ、息もしないくらいにしっかりと鈎を固定して術野を確保せよという言い回しですね。当時は卒業直後に医局に属してから研修を回る制度でした。同期入局者7名の内、私も含めて6名がラグビー、野球、ハンドボールなどの運動部主将経験者というストレスに強い、使い減りのしない体育系集団でした。昼夜を問わずボロ雑巾の様に働いて時給が100円未満という超ブラックな環境も、自虐の笑いに変える能天気さを皆が持っていました。担当患者の手術があると内容を問わず泊まり込みの術後管理です。外科医飲むべし!!の風潮がありましたのでICUと酒場を往復してる内に夜が明けたりします。まだまだパワハラという単語も無い時代ですから、“研修医”に人権はありません。鈎引きで確保すべき術野が見えなくて覗き込むと、“頭突き”を喰らったりします。不手際があると手術台の下で“蹴り”を頂戴する場合もあります。 この何事も上意下達の軍隊式組織で、別部隊の小隊長として活躍されていた江本先生とお会いしました。バリバリの敏腕若手外科医として、泥臭いタコ部屋の中で洗練された異彩を放っておられました。所属されていたホームコートまでご自慢のスポーツカーを駆って、時折、私をテニスに誘い出してくれました。二人で思い切りシングルス対戦を楽しむ事が、重苦しい生活の中で大きな息抜きを与えてくれました。
![]() しかしながら安穏な日々は続きません。名選手の下で球拾いだけを極めてもテニスは上達しません。テニスの強い奴は球拾いも上手いだけです。ボーゲンだけ練習してもスキーの達人にはなれません。どんな斜面でもカッ飛べる奴はボーゲンも楽勝というだけの事実です。医局の方針に違和感を持って、2年の研修終了時点で比較的円満に退社できる方法を模索しました。学生時代にやり残した自動車競技も続けたかったので、北河内医大病理学教室に助手として正規雇用の就職口を得ました。病理とバイトと海外留学、5年の後で卒後8年目から臨床をやり直して、この選択は正しかったと今でも思っています。外科退局時に“オマエが居らんと野球が困る!!!”と神の手教授に言わしめた事は生涯私の誇りとするところです。 北摂医大では、本協会元副会長の菱谷先生、南原先生にも随分と可愛がって頂き、医師会や一般の大会にも頻繁に呼んで頂きました。江本先生、菱谷先生、南原先生が居られなければシニア入りしてからテニスを再開する事も無かったと思います。 会長就任後の運営方針としては“早期の世代交代”を挙げます。着任初年度の抱負としてはやや無理もありますが、可能な限り早い時期での退任を希望しています。副会長、事務局時代も含めて10余年間本協会運営に携わってきました。江本前会長が種を播いて頂いた若芽も逞しく育って来ました。還暦を迎えて今まで出来ていた事と今出来る事の落差に驚く毎日です。老化、衰えと言ってしまえば話は簡単ですが、公務から引退してもう一度自分のテニスをやり直してみたい気分になる事もあります。組織をより強化して次の世代に引き継ぎたいと思っています。 |
……………………大阪府医師テニス協会会長 2013年10月の全日本医師テニス大阪大会へご出場、あるいはご協力を頂きまして、まことに有り難うございました。皆様のお蔭をもちまして、大会は好評のうちに無事終了致しました。心から感謝を致しております。 「如是我聞(にょぜがもん)」は仏教経典、「師曰く(しのたまわく)」は論語、 孟子にも「公孫丑」という高弟がいて、その言辞を書き残しました。 |
2013年 名称問題解決 2013年会報巻頭言より ……………………大阪府医師テニス協会会長 大阪府医師会テニス部 部長 江本敬(豊中市 江本医院) 「顔にガットの紗を掛けた江本です」 大阪府医師テニス協会会員の皆様には各種大会を含む当協会の行事にご参加、ご協力を頂きまして、まことに有り難うございます。特に今年は10月12〜14日に大阪で第40回全日本医師テニス大阪大会・スポーツ予防医学研究会が開催されます。幹部一同今から準備に余念なく、楽しい大会にして参りたいと思っておりますので、是非ともご参加下さいますようお願いを致します。 さて、当テニス部の名称に関しまして従来から若干の問題がありました。全日本医師テニス大会の主管を機にして、この名称問題が表面化する恐れがあり、これを解決しておくことに腐心を致しました。その状況や経過等につきまして以下にご説明を致します。 当協会の正式名称は「大阪府医師会テニス部」であります。大阪府医師会のほかのクラブと同様に、府医に対して前年度の実績や会計の報告をし、また次年度の事業計画を提出して、府医から補助金を受けております。府医全体の予算の関係から毎年少しずつ減額されてはおりますが、年間10数万円の補助を受けて来ました。 しかるに当協会の各種活動は「大阪府医師テニス協会」の名称のもとに行われて来ましたが、この組織は会員、担当理事、各種活動を含めて「大阪府医師会テニス部」と全く同じものであります。なぜ二つの名称があるのか、まずその理由をご説明致します。 日本医師全体のテニス活動を統括する団体の名称は「日本医師テニス協会」であります。これ準じまして、全国ほぼすべての都道府県単位で医師テニスを統括する団体は「北海道医師テニス協会」「東京都医師テニス協会」「・・県医師テニス協会」と「協会」の名称を用いております。これに準じまして我々も「大阪府医師テニス協会」としております。 当協会は全国でも最も活発に活動している医師テニス協会であり、またテニスを通じた他府県医師との交流が多い団体であると自負しております。府下で主催する各種大会には、東北・関東・中部地方から中四国、九州に至るまで毎年遠路多数の先生方がご参加下さいます。その理由として、大阪府での大会参加者や競技のレベルが非常に高い事、そしてまたこよなくテニスを愛し、心からテニスを楽しむ会員諸氏のお蔭様で、真剣な中にも和気藹々とした雰囲気で大会が運営されることなどが上げられます。各種大会は一般の全日本大会経験者を含むハイレベルの選手からはもとより、また一方で初心者、週末プレーヤーからも高い評価を得ております。 そして同時に当協会の皆様も、近畿大会や全日本医師テニス大会において大いに活躍されて常に上位入賞を果たし、人数そして質ともに重要な一大勢力であるとの評価を受けております。このような状況で会員の皆様は、対外的な試合や交流の場では、他府県に倣ってその所属も「大阪府医師テニス協会」とされます。 このように普段の活動を「大阪府医師テニス協会」でおこなっておりますので、大阪府医師会に「協会」への名称の変更を申し出たことがありますが、却下されました。あくまで「大阪府医師会テニス部」の名称でなければ府医のクラブとして認められず、従って補助金を出すことはできないというのがその理由でした。当然と言えば当然な話でありまして、「大阪府医師会テニス部」からの名称変更は致しませんでした。 しかしこのように二つの名称を持ったまま全日本医師テニス大会を主管するとなると、種々の問題が生じて参ります。全日本大会の慣例にならって「大阪府医師テニス協会」の名称で主宰をしますと、まず一つは府医からの「後援」を得ることが難しいことになります。また参加費を経費計上するために同時に開催される「スポーツ予防医学研究会」での「生涯学習単位認定」の取得も困難です。このような理由もあって、名称は二つあるものの実は同じ組織であることを府医に認めて貰うことが喫緊の課題になりました。 そこで昨年11月に府医で行われましたクラブ担当者会議で、上記の状況について縷々説明を致しまして、二つの組織が全く同じものであるということにつきまして、クラブ担当理事及び管轄する総務課の諒解を得ることが出来ました。この日からめでたく「大阪府医師テニス協会」と「大阪府医師会テニス部」を堂々と使い分け、或いは併用することが出来ることになった次第です。長年の胸のつかえが一気に降りたような気が致しましたが、会員の皆様におかれましても上記の二つの組織は全く同じものであることを、誤解なきようご理解頂きたいと存じますので宜しくお願い致します。 最後に大阪で開催される「第40回全日本医師テニス大阪大会・スポーツ予防医学研究会」についてのご案内を再度致します。是非ご参加を頂いて、日頃の研鑽の成果を発揮なさって下さい。 平成25年10月12〜14日(土曜〜月曜の祝日)の三日間、コートはいつものマリンテニスパーク北村のコートを全面借り切って行われます。懇親会及び宿泊はホテル大阪ベイタワーをご用意しております。幹部一同張り切って準備をしておりますので、楽しみになさっていて下さい。 以上です。末尾になりましたが、会員の皆様の益々のご健勝とご活躍を祈念しております。 ![]() ![]()
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「世の中は 澄むと濁るで大違い ハケに毛がありハゲに毛がなし」と戯(ざ)れます。また「世の中は 澄むと濁るの違いにて 福に徳ありフグに毒あり」こちらのほうはややスマートですか。
そう、「知足」ですので私はあまり人のことを羨ましいと思うことはありません。しかしジュリアス・シーザー、彼の人生だけは羨ましくてたまりませんね。もし今から「もういっぺん誰かの人生をやってええよ」と言われたら、たとえブルータス等によって殺されることが分かっていても、一も二もなく「シーザーでお願いしますっ」です。 私は世界の歴史上の人物で、文句なしダントツの大天才は、たった二人だけと思っております。一人は無論シーザーで、もう一人は空海すなわち弘法大師様です。まずは、空海がどれほどの大天才だったかを少しお話しておきましょう。
1. シード入り
しかしカエサルの才能を惜しむ大勢の人達が、自らの危険も顧みずスッラのもとへと助命嘆願に行きます。中には大物もたくさん居て、さすがのスッラも「命だけは許すがマリウスの血を引く娘とは離婚しろ」と条件を出します。当然カエサルは離婚して命が助かるものと誰もが安堵しましたが、なんと19歳のカエサルはこれに「ノー」と答えたのです。身重の嫁に対する愛情もあったでしょうが、権力に対する反骨精神がこの頃からありました。また後年カエサルは打ち負かした敵に対して復讐ではなく寛容をもって対処することを常としましたが、その精神の萌芽がすでにここにあったと考えます。 いずれにしてもそののち彼は当然の逃避行を余儀なくされます。バルカン半島や小アジアあたりを隠れながらウロウロしていたようですが、幸運なことに3年後にスッラが死に、22歳でローマに戻ることができました。 2. 身代金
24歳の時に留学志願、当時学問の聖地であったロードス島へと向かいますが、船ごと海賊に捕えられてしまいます。捕虜となった大勢の船客の中、彼には身代金20タレントの値が付きました。20タレントとは当時のギリシャの通貨で、4千3百人の兵士を1年間雇える金額です。今の自衛隊員の給料はあまり参考にはならないでしょうが、少なめに見積もっても約40億円でして、身代金としては驚くような大金です。ところが当のカエサルは呵呵大笑し、「お前たち一体誰を捕まえたと思っているのか。我は名門ユリウス家のカエサルであるぞ。身代金は50タレント(100億円)だ。一文もまからん」と、これでは一体どちらが人質なのか分かりません。 しかしこれにはカエサルの冷静な計算があって、海賊共は人を殺すことなどなんとも思っていないので、50タレントに値上げしておけばまず殺されることはないだろう、しかしあまりに多額すぎると調達が困難になるし、ぎりぎりの線がこの辺だろう、と考えたのです。100億円でも十分多額と思いますが、それは一億総中流の今の私達の感覚であって、当時の貧富の差はとんでもないものだったのですね。
さて豪胆なカエサルは、100億円に値上げしたのでまず殺されることもなかろうと、海賊たちの間で大きな顔をして暮らしておりました。38日後には身代金を調達に出した使いが戻ってきて彼は解放されますが、その時にも言い放ちます。 「お前たち、全員つるし首にしてやるから覚悟をしておけ」 実際に彼は解放されるとすぐに近くの港に急行し、船と人とを集めてその海賊船を見つけて急襲、全員を捕まえることに成功しました。50タレントは無論お返し願ったでしょうし、最終的に海賊どもは全員絞首刑になりました。弱冠24歳で、危機に陥っても見せたこの冷静沈着な判断力と旺盛な行動力には、後半生のカエサルを彷彿とさせるものがあります。
4.ガリアへ 11.ラフロイグ
大小数十のガリア諸部族が一応平和に暮らしているところへ、豊かな土地を目指して獰猛なゲルマン民族がライン河を西へ越えて侵入してきます。そのため西へと逃れようとするガリアのヘルウェイテイィ族が他部族と玉突き衝突を起こして、大きなトラブルになりました。この解決に向かったのが42歳になったカエサルです。 彼の率いる軍団は、裏切りを繰り返すガリアの諸部族に対して神出鬼没、かと思うとひたすら動じない。足掛け8年の長きにわたって、カエサルは天賦の才であらん限りの戦術と戦略を駆使することによって、ついに広大なガリア地方を平定し、ローマの属州とすることに成功します。この時も彼は敗れた諸部族に対して多大な寛容をもってし、部族の長達には元老院入りを許し、またユリウスの家名を大勢のガリア人たちに許しもました。
5.クレオパトラ さてガリア戦役での凱旋将軍として、盛大な祝賀パレードのもとローマに帰還できるはずのガリア属州総督カエサルでしたが、もともと反元老院政策を進めていたことと、出る杭は打たれるという万国共通のジェラシーもあって、元老院から敵対視されます。彼の情報網によると、ローマへ帰ると凱旋式どころか命さえ危ない。 カエサルはアルプスを越えて、ポー河流域の平野を流れるローマ国境、ルビコン川まで軍を率いて帰っておりましたが、ここではたと考え込んだ。古代ローマには約束ごとがあって、凱旋将軍が軍を解散せずにローマ国内に入ると、たちまち逆賊とみなされて国内の軍団から攻撃を受けてしまいます。こうなってしまっては単身で帰るも地獄、軍と共に帰っても地獄を見ることになります。事ここに至っては内乱も辞さず、と大決心をしたカエサルは軍団に向かって「賽は投げられた」と叫び、そしてついに軍と共に国境ルビコン川を越えます。
若く美しく機知にあふれた世界三大美女の一人に誘惑されて、据え膳食わぬカエサルではあり得ません。しかもです、一盗二婢三妾四妓五妻と申しますが、ローマで密通を繰り返していたカエサルも、今回ばかりは盗む相手が大国エジプトと結ばれた王女であるという、かつて経験のない途方もないシチュエーションでして、これは超特撰の不義密通でもあります。海千山千さすがのカエサルも、これにはハマッてしまいました。 あの夜以来クレオパトラを推しての半年近い内乱の末に、アレクサンドリアを平定してクレオパトラを女王に据えると、カエサルはナイル川源流探索と銘打って2ヵ月の休暇を取り、女王と共に家来達にかしずかれながら、ゆったりと大河を遡る船旅に出ます。川風に吹かれて異国情緒あふれる南国で大きな船に揺られながら、女王クレオパトラとただれた日々を送る。いいですねぇ、火傷で焼けただれるとか、湿疹で首がただれるなんかは嬉しくありませんが、相手がクレオパトラということならもう、いくらただれたって構わない。 この間、小アジアで火の手が上がっているのも放ったままでしたが、船旅を終えて気息充実したカエサルはおもむろにシリアのアンティオキアに向かい、オリエント軍の反乱を一蹴します。この時の元老院への報告が有名な「VENI,VIDI,VICI(来た、見た、勝った)」です。 一方の、かわいそうにも「来られて」しかも「見られて」そして「敗れ去った」ファルケナスの方の言葉は、残っておりません。 6.オクタヴィアヌス カエサルが若い頃から命をかけて目指したものは、元老院による衆愚政治の排除でした。内乱を制しローマ帝国唯一の権力者となってから、彼は元老院の定数を600人から900人に増員しましたが、それは元老院の勢力拡充というよりも、一人ひとりの勢力の比率を下げることを兼ねて、衆愚政治を際立たせようとしたものでしょう。ローマ帝国が今のローマ市街ほどの大きさだった頃には充分機能した元老院も、西ヨーロッパ全土と北アフリカを含む地中海全域を領土とする大帝国を維持するとなると、逆に大きなブレーキになります。カエサルはいち早くそれを見抜いていたが故に、制度改革を進めたかったのです。 このことは東北大震災後の日本政府の対応を見ても、よくお分かりになる筈です。官僚を含めて政府も与野党の議員達も、全員がただおろおろするだけで何もしない、何もできない。復興は全く進まず被災者はいつまでたっても被災者のままです。衆愚政治もここに極まれりの感がありますね。
どうです、カエサルほどの大天才がもしほかに居たら教えて欲しいもんですね。
さて二人の天才についてお長々と話をしてきましたが、カエサルにテニスをして貰ったとしたら、とんでもなく強いプレーヤーであったこと間違いなしです。ストラテジーとタクティックスにすぐれ、長身から叩き込む弾丸サービスだけではなく、ストロークもトップスピンにスライスを混ぜ、時にドロップショットも巧妙に使う。また相手のウィークポイントは無論ですが、ときには長所をも徹底的に攻めて勝ちに行きます。相手は自分の得意なショットを続けても勝てないと知った時に、一気に戦意をなくすからですね。いかにもカエサルらしいテニスです。 では空海がもしテニスをすると・・申し訳ないのですが、いくら頑張っても全然脳裏に浮かんでこないのですね、空海がテニスをする姿が。 で最後に、この二人の大天才の人生、どちらを選ぶかと言われれば、抹香の匂いばかりで女っ気の全くない空海よりは、若きクレオパトラと過ごす中年カエサルの方が、そりゃあいいのに決っておりますよねー、男なら誰でも。 ・・と、バカなことばかり考えながら、日々を過ごしております。 「世の中は 澄むと濁るの違いにて 墓はあの世で バカはこの世で」
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2011年度 会長挨拶 ……………………大阪府医師テニス協会会長 江本敬(豊中市 江本医院) ![]() 古今の名人上手の言には、なぜか相通じるものがあります。ミケランジェロは「大理石の中にいる天使を彫り出しただけだ」と言い、仏師は「材木の中に居られる御仏の、周りの木を除いてさし上げただけ」と言います。
東京工大名誉教授でロボット博士として有名な森政弘氏が、昔ある対談で異口同音、次のように述べていて印象に残りました。 森政弘氏は工学博士ですが仏教特に禅宗にも造詣が深く、モノ屋が心のことを色々と説くので却って説得力がありました。そうです、ココロ屋が心のことを説教すると、いかがわしくなってしまうことがよくありますからね。 さて彼、森政弘氏の言説には、今でも記憶に残る名句がたくさん有ります。
また問題解決には、その為の意識を持ち続けることは無論必要ですが、それに捉われ過ぎないことも大事であるらしく、森政弘氏の印象深い造語に「念・忘・解」があります。この原稿を書いている今は「忘年会」のシーズンたけなわですが、関係がありません。 ネパールからの依頼で、動力の要らない渡船を考えて欲しいと言われました。川に発電するぐらいの大きな流れのエネルギーがあるのだから、なんとかそれを利用できないか、という訳です。さてエンジンもオールも使わずにどうやって流れを横切るのか、アイデアはなかなかに浮かんできません。 そしてこの話にはまだ続きがあります。
「漸・頓」渾然一体や「念・忘・解」は、テニスの練習や試合にも通じるような気がしてなりません。 と、今回も無理やりテニスにこじつけてしまったような気がしつつ、筆をおきます。 |
2010年度 会長挨拶 我が家では車は軽四を重宝しております。2台あって、私が往診で狭い路地に入っていく時や、家内や子供が買い物に行く時など、街なかを走るには実に便利です。どこにでも停めやすいしガソリン代も節約できるし、いいことだらけですね。ただし事故の時に危ないのが欠点ですが、できるだけ大型車の前を走らない、特にタンクローリーの前は絶対に避けるように気をつけています。なぜならタンクローリー車は急ブレーキこそ踏みますが、絶対に急ハンドルを切ってはくれません。もし横転でもすると辺り一面火の海となって大惨事を招くため、追突すると判っていてもブレーキを踏むだけで「ゴメンネ〜」と言いながらぶつかってくるらしい。 そういう事故を避ける意味もあって、我が家の軽四は2台とも「若葉マーク」に加えることのいわゆる枯れ葉マークすなわち「もみじマーク」も貼り付けてあります。マークだらけの車を見て町行く人たちが、どういう意味?といった顔をしても無視します。法律的には、対象者でなくても付けてよいことは確認済みです。 これらのマークにはメリットが一杯あって、まず走行中に他の車があまり近寄ってこないので、安全運転につながります。また狭い道ですれ違う時には、たいてい向こうでギリギリまで除けてくれるし、たまにこちらで除けてあげるというと、普通は知らん顔で通り過ぎるような大阪のおばちゃんでさえも、そんなに頭下げると危ないよと思うぐらい、すれ違う前から何度も何度も頭を下げて、最敬礼で愛想をしてくれます。また駐車場で止める時には、係りのおじさんが飛んできて誘導してくれますが、こういう場合にはあんまり上手に一発でピタッと停めたりしますと折角のご好意を無にすることになるので、ちょっとドジドジして見せることも肝要です。 この若葉・もみじマークは、実は省エネにもつながるのです。ある時、思いきり省エネ運転をしてみて、どのくらい燃費が改善するかということを、ゲーム感覚で徹底的に試してみたことがあります。 まず、なるだけアクセルを踏み込まない、そしてブレーキも使わない運転を心掛ける。信号が赤なら、かなり手前からアクセルを離して惰性で走る。今の車はエンジンの回転数が下がってくると、大体800回転位を維持して燃料噴射を続けるようになっているので、平地ならアクセルを離してもどこまでもトロトロと走ります。この間ガソリン消費量はアイドリング時とほぼ同じですね。赤信号の手前からはこの調子でゆっくりゆっくりと信号まで辿り着くのですが、この時に諸マークが威力を発揮します。何もつけていないと後続の運転手をイライラさせて、フォーンを鳴らされたりビームで煽られたりと急かされますが、これら最強のダブルマークを見せておくと(まぁ、しゃあないか)ということで、ゆっくりとついてきてくれます。ということは実に、うしろに連なる車の省エネ運転にまで貢献しているのです。 他に省エネ運転ということでは、坂道を降りる時や信号で停止する時などはオートマでもシフトダウンして、出来るだけエンジンブレーキを多用します。エンジンブレーキで走っている間は燃費ゼロですから。そしてアクセルワークにも非常に気を使います。離した時をゼロ、一杯に踏み込んだ時を100%として、自分の右足は今どのくらいでアクセルを踏んでいるかを常に意識する。アクセルを23%から19%位まで戻し気味にしても車のスピードは意外と落ちないことに気が付くでしょう。ガソリンの消費量はアクセルの深さに正比例します。また荷物を出来るだけ少なくして、車を軽くしておくことも大事ですね。トランクにゴルフバッグを積みっ放しなどは、もってのほかです。燃料を満タンにするとそれだけでも数十kgは重くなるので、ガソリンタンクに半分以上は入れないようにして、たとえ面倒だと嫌がられても小まめにガソリンスタンドに通うという厚かましさも必要です。 一番ハカが行くのは高速道路走行時です。時速80km/hの法定しかも経済速度で走るのと、120km/h以上で走るのでは燃費がだいぶ違います。オービスや覆面パトの心配もないし、少し早めに出発すればよいのであって、ゆっくり走行するとメンタルにもずいぶんと楽である、ということに気付きました。 あと細かいことを言いますと、今までは運転席に坐るとすぐにイグニッションを回してエンジンをかけていました。そしておもむろに座席やバックミラーを調整したりシートベルトを装着しておりましたが、今ではそういったことを全部済ませてからエンジンをかけます。最近の車は暖気運転も不要らしい。 さあ、この涙ぐましい努力でどのくらいガソリンが節約できたかというと、軽四のマニュアル車で12km/lが19km/lに、1,8トンあるワゴン車に至っては高速で7km/l台という今時犯罪のような燃費だったのが、10km/l以上に伸びました。枯れ葉マークの購入費などはすぐにお釣りが来ております。しかしお金の問題ではなくて、車に乗って空気を汚すからにはせめてもの償いのつもりで、今後もマークだらけの車でとろ〜りとろりと走ります・・・というよりも、ブイブイ走り回る若いパワーがなくなっただけのことかも知れませんがね・・。 さて、前振りが異常に長かったのですが、テニスでも省エネはとても大事な目標だと思います。 1960〜70年台にかけて活躍したインドのデ杯選手クリシュナンの試合を、高校時代に大阪うつぼのセンターコートで観戦したことがあります。まだ石黒選手なんかが活躍をしていた時代です。当時はフィリピンにもアンポンやデイロというツワモノどもの壁があってなかなかインドと対戦することさえも難しい時代でしたが、その時は日本でデ杯対インド戦があったのでしょう。 うつぼでのエキジビションマッチでクリシュナン選手は、名前は忘れましたが当時全日本でトップテンに入るサウスポーの選手とシングルスで対戦しました。その試合の様子は今でも目に焼きついておりますが、日本の選手が大車輪でコート狭しと脱兎のごとく走り回っては、風車のごとくラケットを振り回して強打を放つのですが、相手には全く通用しません。かたやクリシュナン選手はゆったりと構えて必要最小限の、しかもスムースでよく力が抜けた動きでスーッスーッと相手をあしらう、言わば究極の省エネテニスをしておりました。サウスポー選手のひとり相撲で、クリシュナン選手はまったく何にもしていない様にさえ見えましたが、スコアはまったくお話にならない6−2、6−0でした。無論クリシュナンの勝ち。 強い選手はみなそうですが、プレイに集中しつつもフィジカルにはリラックスをしています。アンティシペイションがよく、そしてフットワークも全身の動きも最小限で済ませます。そして走って行ってボールを捉えて打ち終わる前に、既に元のポジションに戻るための態勢ができているので、当方はどこに打っても相手はいつもそこで構えているような錯覚に捉われてしまいます。ではということで、さらに厳しいところを突こうとして、こちらが自滅してしまうという次第です。 またパワーに関して言えば、鬼瓦のような顔をして首に縦スジを何本も出して目一杯力を入れたショットを打てば、それだけ威力のあるショットが打てるという、本能的な勘違いも当方にはあります。実は上半身の余分な力は、ショットの威力を削ぐ以外になんの働きもしないのですね。 という訳で、これからはテニスも省エネに徹するよう心がけるつもりです・・なに、歳でパワーが無くなってきただけのことかも知れませんが・・・。 法的には問題ないと思いますので、各種大会ではシャツと帽子のワンポイントに若葉と枯れ葉マークを付けて、省エネ安全テニスを心がけることに致します。 ![]() ![]() ![]() |
2009年度 会長挨拶 ![]() 日頃は大阪府医師テニス協会主催の各大会にご参加、ご協力下さいまして、まことに有り難うございます。お蔭様で今年度も各種大会を予定通りに大過なく実施することができました。色々な大会に、初出場のドクターや若い先生方も多数ご参加下さいました。理事の皆様とともにこの隆盛を心から喜んでいる次第です。また今年も事務局のご尽力で、このように皆様のお手許に会報をお送りできることを嬉しく思います。 さて当テニス協会は団体戦やシングルス大会も開催しておりますが、大変好評で毎年日本全国から大勢の強豪にご参加を頂き、非常にハイレベルな大会となっております。今回の会報では、そういった遠来の凄腕出場選手の方々から「天然芝コート」につきましての原稿を頂き、その素晴らしさをアピールする特集を組みました。格調高い達文あり、叙情詩を読むがごとくの散文あり、あるいは抱腹絶倒の体験記ありと、起伏に富んだ素晴らしい芝コート賛歌シリーズになっております。 今回話題のテニスクラブは、佐賀県にある「グラスコート佐賀テニスクラブ」です。全日本医師テニス大会でも何度か優勝しておられる緒方周先生をご存知の方も多いと存じますが、この芝コートのテニスクラブは周先生のご尊父緒方勝徳先生が1975年に創設されました。引き継がれた緒方周先生は、私財をなげうってこのコートを維持管理されるとともに、国内大会は無論国際大会もここで開催され、なおかつ将来のウィンブルドン出場選手の育成にも尽力しておられます。大企業も景気が良い時には企業メセナなどと大きな顔をしておりましたが、景気が後退するにつれて、ここ大阪でもあちこちでテニスクラブまでが売り払われ、マンションなどに変わってしまっております。省みて緒方先生の全身全霊を捧げたこのご努力には、頭が下がる思いがすると同時に畏敬の念を擁かずにはおれません。また私どもにまで大変な歓待をして下さいまして、毎回ヤスキヨの片割れ横山やすしの物真似を見せてくれますが、何度見ても腹直筋が痙攣するまで笑ってしまいます。この会報のどこかにその写真がある筈ですのでご参照下さい。 話は少し泳ぎまして、急に俳句のお話です。1年ほど前にある女性から自費出版の俳句集を頂きました。私は俳句には全く縁がないのですが、それでも読み進むというと、なかなかに繊細かつ大胆な佳句がたくさん載っておりまして、充分に楽しむことができました。そして、本の後書きに引用されていた一句に思わず目が吸い付いたままで唸ってしまいました。 今生のいまが倖せ衣被 広辞苑で調べてみると「衣被=きぬかつぎ」とは「里芋の子を皮のままゆでたもの。皮をむき塩などをつけて食べる」とありました。 なるほど「今生のいまが倖せ」と大きく出ておいて、ではそのわけは?というと里芋がうまくゆがけて美味しいからというわけですね。そこのところのギャップが楽しい句です。しかし決してそれだけのことではありません。旬のものをその季節に美味しく頂けるという、思えば何ほどでもない日常のひとこまですが、その平凡な暮らしを送ることができる健康が有り難いし、些細なことでもいまの倖せを心から味わいつくしまた感謝するという、そのこと自体がまた素晴らしい。 そして「今生の・・」ですからね、厳密に言えば今までの人生で味わってきたどんな倖せに比べても今が倖せであり、またこれからの一生涯で体験するであろうどんな倖せよりも「里芋を食べている」今が倖せであるということにほかなりません。物理科学でも哲学でも「時間とは何か」という問題は解決できていない筈でして、過去は記憶の中のことであり、未来は想像の上にしかない。従って自分の存在は確かに「いま」にしかないのかも知れませんが、それを割り引いたとしても「いまの倖せ」を全身で味わい感謝して生きるということが、これこそが人生の達人になる秘訣なのかも知れません。
2008年12月10日 <巻頭言 追記>(「2008年度 京都府・大阪府医師会親睦テニス大会のご報告」より) 大阪府医師テニス協会主催の大会は
永い歴史を持つ「大阪・京都」「大阪・兵庫」「京都・兵庫」の各府県の対抗戦は今年で終了致します。と申しましても下記の要領で3府県合同の懇親テニス大会を開催することになりましたので、発展的解消と捉えて下されば結構かと存じます。 2009年から、年に一度ですが大阪・京都・兵庫の3府県及び奈良や滋賀の選手の皆様にもお声かけをして、1泊テニス旅行を実施する予定です。このような合同大会とする理由はいくつかありまして、まずひとつは、3大会に分散するので各大会でどうしても参加選手数が少なくなること、また飲酒運転の問題があり懇親会が盛り上がらないこと、そして各府県幹部の方々の負担が大きいこと等が挙げられます。特に大阪府医師テニス協会では団体戦やシングルス大会という特別なそして大変好評な大会を運営しておりますので、平均して毎年1回やってくる対抗戦の主管が3年に1回になれば大きな負担軽減になります。こういったことから、試みとして来年度まずは大阪府が主管をして、第1回目の3府県合同懇親テニス大会を開催致します。 予定では土曜日の夜、飲みかつ食べかつテニスへの想いを語り合い、また翌日の日曜日は心ゆくまでのテニスプレイで、二日にわたってテニス漬けになって共に過ごして頂きます。非常に充実した親睦の会になるのではないかと今から期待し、また楽しみにもしております。開催時期はゴールデンウィーク明けあたりを考えておりますので、選手各位はこのホームページを時々覗いていて下さい。そして是非ご参加下さいますようお願い致します。また今後とも当テニス協会の行事にご協力を頂きますよう宜しくお願いします。 |
2008年 会長就任の挨拶 平成19年4月から大阪府医師テニス協会会長をおおせつかりました江本敬(タカシ)です。ホームページ新設を記念致しまして、ひとことご挨拶申し上げます。天津良孝元会長、岡征雄前会長に続きまして、なんと見劣りのする江本現会長ではありますが、会員皆様のご協力のもとに微力ながら少しでもお役にたてればと頑張って参りますので宜しくお願い致します。 安倍総理は「美しい国」をキーワードに本を著し、また就任演説を行いました。安倍内閣が死に体となってからは失笑を買っている「美しい国」ですが、私はどこがおかしいのかよく分からず、別に悪くはなかろうと思っておりました。しかしこの就任のご挨拶を書こうとして気付きました。 「私は府医テニス協会会長就任に当たり、これを美しいテニス協会にしていきたいと思います」 変ですねやはり。「美しい」では理念にさえもなり得ないことが分かります。 これまで先輩諸氏が営々と築いてこられた大阪府医師テニス協会の活動はいま、非常な隆盛のもとにあります。各種の大会に大勢の会員の皆様がご参加下さいまして、それぞれが良い大会に育っていっております。これもひとえに会員の皆様はじめ理事の諸兄諸姉、わけても事務局としてお世話を頂いております原文雄、統子ご夫妻のご尽力のたまものであります。全部の大会の案内から実行、そしてホームページの管理まで、実費以外は全くのボランティアで貴重なお時間を割いて頂いております。原ご夫妻なしでは現在の活況は有り得ませんでした。一会員としましても感謝の気持ちでいっぱいです。 現在大阪府医師テニス協会が主管している主な大会は次の通りです。 このように当テニス協会は非常に活発な活動を行っている、日本でも稀有な医師テニス協会と自賛しております。現在のままでも充分に「美しいテニス協会」ではありますが、今後若い選手諸君のご協力をも頂き、さらに活性化と若返りを図って参りたいと考えておりますので、宜しくお願い致します。 以上をもちまして甚だ楚辞ではございますが、就任のご挨拶と致します。 |
ラケット今昔(2007年度会誌巻頭言より)大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄![]() ラケット今昔 近頃はテニスショップを訪れると店頭には多種多様のラケットが並び、 どれを選ぶか頭を悩ませる時代です。 モデルチェンジのペースも速く1、2年使い慣れたラケットと同じものを探すと既に製造中止で新しいモデルに代わっている・・・・ こんな経験をお持ちの先生も多いことと思います。 “大学に入ったら何か運動クラブに入れ、年取っても出来るのはテニス”と入学時に父が買ってくれたのが写真1、2の “フタバヤ”です。フレームのどこにも製造社名や製品名も無く、ただスロートに“FUTABAYA”と記されているだけです。 我々はフタバヤの“無名”と呼んでいましたが、後に一世を風靡した“スーパースピン”の原型モデルだったようです。 その頃はラケットを選ぶにも店頭には2、3種類しか置いてない状態で、他のメーカーは“KAWASAKI”位しかありませんでした。 当時垂涎の的だった全竹製の“ミリオンストローク”もありましたが、高価で我々には手が届きませんでした。 写真1 ![]() ![]() 卒業後は10年間のブランクがありました。大阪労災病院でテニスを再開した頃はまだラケットは木製でしたが、 その後素材は目まぐるしく変わりました。アルミニウム製から金属カーボン複合になったヘッド社“マスター”、 ウイルソン社の金属製“T−3000”、ヨネックス社の化学繊維製“R−22(これは名品)”、デカラケの別名が付いた“R−7”、 厚ラケの走りとなったウイルソン社“ハンマー”等と各種素材のラケットが登場して現在に至っています。 最近ではグラファイト、カーボン、ノナカーボン等との呼称が主役のようですが材質に素人の我々に詳しいことは分かりません。 店員の薦めや、友人の評を参考にして買っている状態です。ただ最近はラケット全体の性能が上がり、どれを使ってもそれなりの打ち方が 出来るようです。“打球はラケットよりガットの種類とそのテンションで決まる”と言われながらも腕の悪さをラケットの責任に転嫁して 貯まった結果を写真3以下に示します。これでも三分の一くらいです。これに懲りずに“次ぎはどのラケットにするかな???” と考えるのもテニスの楽しみの一つではありますが・・・・・・・・・。 写真3 ![]() 写真4 ![]() 写真5 ![]() ![]() ![]() |
審判(員)(2006年度会誌巻頭言より)大阪府医師テニス協会会長 岡 征雄![]() 審判。 辞書で引くと「物事の是非・適否・優劣を判定する事」 「スポーツ競技などで規則への適否・優劣・勝負を判定する事。またはそれをする人」とあります。 ご存知のようにスポーツの世界では競技の種類によって審判(員)の呼び方が アンパイア(Umpire)、レフェリー(Referee)、ジャッジ(Judge)、主審・副審・行司等と変わり、 審判方法も一般的な笛(ホイッスル)から音声・旗・身振り・減点法・軍配・機械判定等があります。 町の公園や小学校のグラウンド等で行われている少年野球やサッカーにも必ず一人は審判が附いています。 ただテニス競技では、現在大部分の試合が審判なしのセルフジャッジです。 JOP(Japan Official Point)の掛かった試合でも然りです。 いつの頃からかセルフジャッジが主流となり、 「Best of three set match・・・ ・・・serving play ! 」を経験された年代の方々には寂しい限りですが、 酷暑・酷寒の時期の負け審判が無くなった事だけは有り難いとしましょう。 セルフジャッジでは「疑わしきは相手の有利に」の精神が原則です。 しかし中には「疑わしきは自分の有利に」、更に「イン」であってもライン際のボールはすべて 「アウト」と判定する何々流ジャッジとかがあります。 最近ではネットを挟んでジャッジやスコアーを巡って揉めている光景を度々目にします。 スポーツマンシップに欠け、あまり誉められた光景ではありません。 不愉快で悔しい思いをされたり、揉め事に集中力が切れて大事な試合に 負けてしまった経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。 最近ではVTRの画像がその場の判定に取り入れられるようになった競技もあります。 このようにVTRまで登場する審判の世界に、草トーナメントであれ セルフジャッジで試合を行う事は(勿論国内外の主要大会では審判および機械判定が取り入れられて いますが)テニスプレーヤーには紳士的な方が多いと考えるのか、 判定はプレーヤー自身に任せる曖昧なスポーツと考えるのか・・・。 セルフジャッジの功罪を一考する時期に来たのかも知れません。 とは言いながらも、今日も「テニスの友」をバッグの片隅に、いざコートへ! ![]() ![]() 1A・4CON(ワンエー、フォーコン)
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