![]() (2012年度会誌より) 飯田武雄 (枚方市 イイダ耳鼻科) ![]() 飯田武雄 (枚方市 イイダ耳鼻科) ![]() 角辻格 (高槻市 角辻医院) ![]() 飯田武雄 (枚方市 イイダ耳鼻科) ![]() 上杦裕子 (城東区 済生会野江病院 内科) ![]() 原統子 (池田市 原医院 小児科) ![]() 福田眞輔 (港区 多根第二病院) ![]() 南原征哲 (箕面市 南原皮膚科) ![]() 江本敬 (豊中市 江本医院) ![]() 菱谷好高 (豊中市 菱谷医院) ![]() 近藤元治 (京都府立医大名誉教授 高槻市 藍野病院院長) ![]() 川口憲明 (高槻市 川口医院) ![]() 豊中市 緑ヶ丘病院外科 原文雄 ![]() 亀岡市 亀岡市立病院麻酔科 橋本朋子 ![]() (2006年度会誌より) 港区 大阪船員保険病院放射線科 中西克之 ![]() 旭区 伊藤小児科医院 伊藤 謙吾 ![]() 枚方市 香里ヶ丘有恵会病院外科 山田修 ![]() 池田市 前田クリニック 前田 育子 ![]() 豊中市 緑ヶ丘病院 原文雄 ![]() 豊中市 江本医院 江本敬 ![]() 豊中市 星野医院 星野 嘉明 ![]() 大正区 大阪府済生会泉尾病院内科 小西 正人 |
枚方市 イイダ耳鼻科 飯田武雄 1)練習 硬式テニス 所謂 硬庭を始めて、早や約50年近く過ぎました。今の目標は、80歳まで現役プレイヤーを目指しています。今、当年65歳だから、後15年は頑張ります。 毎週木曜日の午後、近くのクラブのプロコーチにプライベートレッスンを受けています。この頃は主に①ボレー・ボレー ②ローボレーとハーフバンドのボレー ③サーブ・安堵・ボレー ④シングルスの試合練習等を順に行っております。 自分が40~50歳ころまでより、明らかに最初の一歩の反射神経、足の運びのスピード、スタミナ、どれをとっても、年々その衰えに歯がゆさを味わっています。 守りのテニス、攻撃的テニス、相手に合わせて、そのミックスのテニス。私は、まだ自分では思い切りアグレッシブな攻撃的な戦法のテニスを目指していますが、いつも、昔はあの位の球なら楽々と追いつけたのになーの連続で、もっと頭脳的な省エネの戦法に変更しなければと思っているこのごろです。 2)メンタル 以下は私の経験的な持論です。;現在の世界のテニス界に於いてのトップは、フェデラーとナダルです。フェデラーは攻撃しながら守備もできるし、守りながら攻撃も出来ます。又、以前のナダルはドライブ球での繋ぎながら鋭角やストレート・ボールでのパッシングショットで得点していましたが、近年は徐々に、短いボールに対してはネット・ダッシュしてポイントを取る様になり、年齢的に、ロングゲームではスタミナの点でフェデラーを追い抜ける所まで来ています。両者を比較すると性格的には、外見上だけですが、フェデラーはオールラウンドプレーヤーで、静かな闘志を持っているが柔和ですが、ナダルは冷静に見えても、ギラギラとした攻撃的性格が顔の表情から推測できます。 私がこれまで観戦したり、対戦した相手を思い起こせば、超一流の選手は正攻法な戦術ですが、二流の人は本当にいやらしい戦法や試合以前の問題で、こちらの心理の逆をワザと突いて来ます。だから一流になるには、このイヤラシサを経験し、通過しなければ一流にはなれません。私は生まれながらに短気で、正直なので、いつまでたっても、一流にも二流にもなれないでいます。精神、技術の目標は高いですが、今の所、日暮れて、道、遠しの感じです。 平成22年2月記 |
![]() 角辻 格 角辻医院(高槻市) まず始めに、この文章を読もうと思っている方、よっぽどお暇な場合ならいざ知らずですが後悔しないために次の先生の原稿をお読みになることを強くお勧めいたします。尚、この勧めにも耳を傾けずこのまま読み進んでいる頑固な、いや、失礼しました、意思の強固な方はもしかしたら脳動脈硬化が進んでいるかも知れませんので一度検査をお勧め致します。
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…………………上杦裕子 済生会野江病院 内科(大阪市城東区)
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でみつけた記事です。 大阪の靱テニスセンターにて開催されている「2009ワールドスーパージュニア」の (もちろん転載はてらおさんの許可を得ました。)
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テニス肘 (2008年度会誌より)
自覚症状は肘関節外側(橈側)の痛みで手首の橈背屈(radial extension)動作で誘発増強する。例えばコップを持ち上げる、ビールを注ぐ、金槌を使うなどの日常動作が痛い。日常生活上の手関節運動は純粋の掌背屈動作は少なくてほとんどはdarts throwing動作に代表される橈背屈(radial extension)から尺掌屈(ulnar flexion)への運動なので日常の手に物を持って使う動作の大部分が肘の痛みを伴うことになり罹患者には相当にうっとうしい。この症状に加えて肘外側(上腕骨外上顆)の圧痛と、抵抗を加えながら手首を背屈させると(wrist extension test)症状が誘発されると診断は確定する。 (2)疫学 一般人口におけるこの疾患頻度はオランダにおける調査があり有病率(prevalence)は4.4%、発生率(incidence)は1—2%/年とされている。30歳以下と60歳以上では少なく30〜50歳代の好発年令では女性が男性の2倍以上多い。我が国でもこれと大差ないと思われる。それではテニス人口ではどうであろうか。倶楽部テニスレベルから国際級選手まで異なる技術レベルの選手を対象とした多数の調査があるがテニス肘の頻度は技術の高低にあまり関係なく30—50%の選手が経験している(表1)。この頻度は一般人口における頻度とくらべて明らかに高い。 表 1 テニス人口におけるテニス肘の頻度
(3)病態 テニス肘は通称であって上腕骨外上顆炎が一般的病名。ただし病変は骨ではなく軟部組織にあるのでこの名称もmisnomerである。病理学研究では橈側短手根伸筋(ECRB)の起始部(上腕骨外上顆への付着部)(図1)が灰色の瘢痕組織様に腫脹しているのが観察される。組織所見ではtendinosis(線維芽細胞や微細血管の増殖、膠原線維の変性)であり慢性的微小外傷の治癒機転の乱れが原因とされ、tendinitis(貪食細胞、好中球、リンパ球の増殖)とは異なる。画像所見としては我が国のテニス肘患者19人に超音波検査をおこなった研究では、総指伸筋(EDC)、ECRBの上腕骨外上顆への付着部の腫脹が認められ罹病期間が6ヶ月を超えるとその頻度がさらに増している。MRIによるデンマークの調査ではECRB付着部の剥離、肥厚、シグナル変化が正常の対照群にくらべはるかに高頻度にみられている。しかしこの画像変化は6週後に再検すると臨床症状は回復しているのにほとんどが残存しているのでcurrent painとの相関はないようである。
図1 前腕伸筋群の解剖 (4)原因 テニスプレイヤーに生じるテニス肘障害の原因は何か。英国の地方リーグ選手74人を対象として、原因を選手自身に推察させた調査ではプレイ過多をあげたものがラケットの種類、技術、テニスコート、生活習慣、併合スポーツなどをおさえてもっとも多かった。またイスラエルのアマチュア選手150人を対象としてプレイ時間、年令、テニス開始年令、経験年数、身体計測、ラケットサイズなどとテニス肘発症との関係を多変量解析した研究では1週間単位のプレイ時間が最大の危険因子であった。このようにoveruseが原因である事は一般に認められている(表2)。ラケットのグリップサイズをいろいろ変えてストローク時の前腕筋群の活動をEMGで調べた研究ではグリップの太さによる影響は無視できる程度としているのでこれもテニス肘の原因にはならないと考えられる。 手関節の伸展(背屈)に作用する筋群には腕橈筋(BR)、橈側長手根伸筋(ECRL)、橈側短手根伸筋(ECRB)の3筋があるのに何故ECRBが選択的に障害されるのだろうか。この部分の解剖を屍体で詳しく調べた研究では上腕骨への付着部が頭側からBR、ECRL、ECRBの順なのでECRBがすぐ下の上腕小頭に他の2筋によって押し付けられるためとしている。
(6)治療 スポーツ外傷の常として装具、マッサージ・温熱などの理学療法、NSAIDの外用・内服、ステロイド局所注射などの保存療法がおこなわれる。最近の流行としてこの疾患に対するrandomized controlled trial (RCT)がおこなわれステロイド注射の効果について面白い知見が出たので紹介する。2002年3月〜2004年5月、オーストラリアのブリスベンで有症者198人を無作為に理学療法群(30分、8回/6週)、ステロイド局所注射群(1ないし2回)、無処置観察群に分け52週(1年)追跡した。完治ないし著明改善を有効とすると6週まではステロイド注射群が有効率78%で理学療法群65%、無処置観察群27%を凌駕していたが12週では注射群が45%に減少し他の2群がそれぞれ76%、59%と増加して逆転し以後この傾向は52週(68%、94%、90%)まで続いた。これはステロイド注射群では症状再発率が高いためであり、その原因は痛みがすぐに無くなるので安静が守れないためと推測されている。この研究結果はさらにテニス肘は局所の安静だけで1年以内の自然治癒が9割に期待できることを示している。 難治例には手術療法もいろいろ考案されている。私自身は経験がないのでお勧めはしないが文献上もっとも合理的と思われるECRB起始部の変性部分を切除する術式の考案者による成績を紹介すると、1213患者のうち保存療法に抵抗性の82人(男44人の罹病期間21.6ヶ月、女38人の罹病期間51ヶ月)88肘に手術をしexcellent (full return to all activity with no pain) 66肘、good (full return to all activity with occasional mild pain) 9肘、fair (normal activity with no pain, significant pain with heavy activity) 11肘、failure (no relief) 2肘としている。
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私のテニス「夫婦でストローク」 (2008年度会誌より) Wilson Advantage
Black 4 1/2 。私が初めて手にしたテニスラケットです。昭和54年。28年前の話です。この黒光りするラケットと銀色のお玉を一つもって女房は私の所へ嫁に来ました。ウイルソンアドバンテージ、これは妻の宝物で、石橋のパン屋でアルバイトをして貯めたお金でやっと手に入れたものでした。その宝物を私にくれました。初めてアドバンテージで打った時その抜けるような感触に感動し、テニスにのめり込む事になりました。
その頃阿武山のNo1選手に一生に一度テニスで勝ってみたいと言いますと、あなたには一生に一度も負けないといわれました。なぜなら彼は一週間に8度テニスをしているからだと言いました。私のテニスがある程度充実して、箕面の市民大会でシード選手になった頃、一度だけ彼を追いつめた事があります。香里オープンの準決勝5-3リードで私のパートナー加納さんのサーブ。15-15でサーブした時ファーストがフォールト。セカンドサーブが入ったと思ったら、彼はフォールトと叫びました。フットフォールトだそうで、その判定でもめ、試合が一時中断。ゲームの流れが変わってしまいました。そしてその試合は5-6で負けました。その後、彼に勝つチャンスは二度とありませんでした。当時は年間約20の大会に参加しました。オープンの試合は阿武山テニスクラブの加納さんが、箕面市民大会は箕面在住の大庭さんが。(大庭・南原で箕面市の代表として北大阪大会にも出場出来ました。)医師会の試合は江本会長や坂井田先生、菱谷先生、兵庫の横山先生、安藤先生がパートナーになって下さいました。 そして優勝経験のない私に初めて優勝の美酒を飲ませてくれたのは原文雄先生でした。初優勝はサールオープンでした。その後大阪府医師テニス大会、近畿医師テニスで原・南原で優勝しました。病院対抗団体戦でも井上、横山、榊原、菱谷、田中、南原のメンバーで優勝しました。平成6年全日本医師テニス大会大阪での女房とミックスダブルス優勝は夢のような出来事でした。私のテニスライフは充実していました。
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モンゴル紀行 (2008年度会誌より) 第0日目 モンゴロイド 人類は大まかに言えば、以下の3つの人種に分類されます。 1.ネグロイド=類黒色人種群 2.モンゴロイド=類モンゴル人種群、これは黄色人種 3.コーカソイド=類白色人種群 我々日本人はモンゴロイドに属しますが、ひょっとするとその名の示すとおりモンゴルが我々のふるさとかもしれませんね。なぜなら、映像でモンゴルのたおやかな大草原をみるにつけても、なぜかすごく懐かしい想いがするのは、DNAのどこかにある大昔の記憶のせいではないでしょうか。
府医テニス協会の方なら、ご夫妻で熱心にテニスをしておられる高槻の川口憲明先生ご夫妻をご存知だと思います。数年前に川口先生に乗馬をやらないか、と誘われて以来私たちも夫婦で始めましたが、いつまでたっても劣等生でなかなか上達しません。そうこうしているうちになんとモンゴル乗馬ツアーの話が持ち上がりまして、ひょっとするとこれは永年の夢が実現するかもしれない。しかしこれはもう必死の覚悟で馬を練習しないとみんなに迷惑をかけることになるというので、半年間というもの脇目もふらずテニスも釣りもそっちのけで、和泉市の乗馬クラブに通い詰めました。川口先生がコーチに口添えしてくれ、予定より早く駆け足にはいることができて感謝致しました。しかし今から考えると、初心者マーク付きでしかも枯葉マークも付きそうな我々が、よくもまあ無事に帰ってくることが出来たと、今更ながらに胸をなでおろしている次第です。ひとつ間違えるとモンゴルで疾走のはずが「二人して失踪」になってもおかしくないところでした。 第1日目(6月23日、日曜)落目の・・いや落日のウランバートル
第2日(6月24日、月曜) 幻の湖フブスグル
第3~4日(6月25~26日、火~水曜)右肩打撲傷、顔面挫創及び擦過傷
モンゴルでは人口密度が極端に低い割には情報伝達が早く、日本から医者がきているぞ、といううわさがすぐにひろまったのでしょう。その日の夕方にはトラックに乗った親子が遠くからやってきて、昨日からこの娘が発熱と左耳からの浸出液でつらそうなので診て欲しいと、懸命のすがりつくような視線で頼ってこられました。ここは内科医川口憲明先生の出番です。通訳越しの問診と診察のあと、なんとジスロマックを処方しておられました。完治間違いなしでしょう。無論ご好意で無料でしたので、ご両親ははじけるように喜んでおられました。見ると親子とも正装しており、我々が食事をしている間2時間ほどもじっと不安を抱えたままでトラックの中で待っていたようです。その正装も必死の面持ちも、わが娘を想う親なればこそ、と私はその時少し目頭が熱くなりました。あと何日か私たちがここに滞在するというと、門前市を為すほどの患者さんでごった返したことでしょう。
第5日目(6月27日、木曜) 星の家
オボが立っているところは大概眺望も良いので、峠でオボを見かけるたびにトイレ休憩も兼ねてしばらく停車をします。トイレ休憩ったって、日本と違ってパーキングエリアや道の駅があるわけではない。今回の旅行で女性の方たちが一番心配していたのはトイレです。 チンギスハーン空港から車で町を離れ、約2時間南西へと大草原を走って、ウランバートルでのキャンプ「星の家」を目指します。日本の「風の旅行社」と言う会社の経営です。ウランバートルから20km程は舗装された道路でしたが、車のゆれ具合について言えばなんのことはない踏み分け道と大差ありません。舗装はかたちだけで手入れがされていないため、穴だらけのがたがた道でしかも土の道と違って硬いアスファルト、かえってたちが悪いというものです。どんな旅行でも「車中うたた寝」をアテにして行動予定を組み立てるものですが、モンゴルでは不可と知りました。
第6日目(6月28日、木曜) 薫る草原
モンゴルでの乗馬トレックは、これまで味わった色々な非日常のなかでもとびきりの、究極のものでした。ヨーロッパやアメリカに比べると近いし安いし楽しいし、皆様もぜひチャレンジして下さい。なに、乗馬なんてわけはありません。この日ひとり旅のうら若き女性が我々のトレックに従ってきておりましたが、彼女はモンゴルへ来て初めて馬に乗ったということです。乗馬3日目だったそうですが、もう駈け足さえも交えて我々一行に遅れずにちゃんとついて来ておりました。ガイドが二人両側から支えるようにリードしており、また馬もおとなしそうな馬でしたので、見ていてまったく不安感もありません。人件費が安いのでガイドを2~3人つけてもしれているのです。さすがに彼女、お尻が痛いとは言っておりましたが、損傷がどの程度なのかはチェックしそこねましたので判りません。ですからモンゴルで騎乗するために、大枚払って日本の乗馬クラブであらかじめ練習していく必要はさらさらないということです。いわゆる馬術には細かい拘束がありますが、乗馬トレックではうるさいことは何もありません。怪我をせずにマイペース乗って楽しめばそれでいいのです。 第7日目(6月29日、金曜) オボ 「3日間雨」の天気予報にもかかわらずこの日も好天が続き、この旅行中結局一度も悪天候はなく、私と川口先生は「天下御免の晴れ男」の異名を欲しいままにしておりました。昨日はキャンプに向かって帰り始めた頃に遠雷が聞こえておりましたが、馬を繋いでゲルにはいった途端にバラバラーッという大きな音がする。ドアを開けて外をみると大きなヒョウが降っておりました。すごくラッキーなタイミングで晴れ男達の面目躍如であります。
やっとめざす峠の頂上にたどり着いてその向こうを眺めると、これまたどこまでも続く大草原です。まったくこの景色にはきりがありません。ここで昼食をとりながら休憩を入れました。途中馬の水のみ馬でも休憩しましたが、見ていると3頭の親子連れが馬達だけでトコトコとやってきて、泉の水を飲んで帰って行きました。ただそれだけのことですが、つくづくモンゴルの羊や牛馬は幸せだなと思います。大草原を走り回って食べたい時に食べ、飲みたい時に飲む。自由極まりない。日本の牧場で飼われている乳牛をご存知ですか? 固定された細い首かせをはめられたままで牛舎の一ヶ所で身動きもままならないのですが、その首かせは生涯ただの一度もはずされずに、ひたすら搾乳されるだけの一生なのです。草原を走り回るなど夢のまた夢。あの乳牛の可哀想な姿を思い出して彼我のあまりの違いに、人ごとながら・・ではない牛馬ごとながら、思わず涙ぐんでしまいました。
おなかも出来たし充分休憩もとったので、眼下はるか遠くに白く、ゴマ粒よりも小さく見えているキャンプのゲルまで帰ります。馬は相変わらずパワフルで、全員が調子よく駈け足をしておりました。その時は一瞬なにが起こったのか判りませんでしたが、数頭の馬が何かに驚いて急に大慌てで疾駆を始めました。直後にどさっと鈍い音が2回聞こえました。二人が落馬したようです。私と家内の馬もパニックになっており、いくら手綱を引いても止まる気配がない上に右足のアブミも外れてしまいました。もうあかんか?と思いながらも手綱を締め続けておりますと、やっと速歩から並歩になって停止してくれました。家内も無事に乗りこなしておりました。どうです、オボ祈願のお蔭でしょう、と心中快哉を叫んでおりました。幸いなことに今回の落馬はたいした怪我もなく、打撲だけで済んだようでした。原因は遊牧民の牧童がいい加減にくくりつけていたカバンが鞍から落ちて、それに馬が反応して驚いたのだと、後ほどわかりました。残り小一時間ほどの今回最後の騎乗は、思わぬ疲れが溜まっていることでもあり、兼好法師徒然草の「木登りの名人」を思い出して慎重が上にも慎重に進めました。そうです、梢の上では誰でも用心する、あと少しになって気を緩めないように、との教訓ですね。
第8日(6月30日、土曜日) 生還 翌早朝にウランバートルチンギスハン空港から成田へ飛び、今回の私にとってのですが一大冒険旅行から無事に生きて帰ってくることができました。お世話になった方々に深謝する次第です。 特記事項1. Agnus Dei(神の子羊) モンゴルでは食事が恐ろしくまずいので日本食を持参するほうがよい、という情報がはいっておりました。しかしあとで聞くとこれはモンゴルといっても内モンゴル自治区へ行った方のお話しで、内モンゴルといえば食品問題で今いろいろと取り沙汰されている中国ですね。これは怖いので食料持参も必要ですが、モンゴルではその必要はまったくありません。食事については覚悟もし、かなり構えてもいたのが拍子抜けするくらいでして、全く問題ありませんでした。例えばある日の夕食は、牛肉入りのあまり辛くないカレーにライスやパン、レンズマメ入りのヨーグルトに野菜サラダといった風に、おしゃれで充分おいしい食事が続きました。湖で取れるニジマス料理も出たりしてよかったのですが、難を言えばビールが生ぬるかったことですね。冷蔵庫で冷やすというような贅沢な行為はモンゴル語の辞書にはないようです。
Linea alba(白線)と腹膜を切開して開腹をします。その切開部から右手を入れて腹腔内を上方へ向かい、左の横隔膜を指で鈍的に穿孔して左胸腔内へと右手を入れます。この時できるだけ上で、すなわち前胸壁に近い部分で横隔膜に穴をあけることが大切です。そうしないと腹腔内に多量の血液が流れ込んでくるでしょう。 胸腔内に入れた右手で心臓とそれに続く大動脈を確認し、起始部近くで胸膜を中指で鈍的に剥離して縦隔にいれ、その中指を大動脈にひっかけそしてはじき切ります。この現地人はブラックジャック並の腕で大変手際よく、ここまで約30秒とかかっていません。また羊は皮膚切開の時に少しうごめいただけで、あとは静かにしています。ただ横隔膜を破るときにちょっと痛がっただけです。腹膜や胸膜には知覚神経がありますが、単なる腹腔や胸腔内の操作ではあまり痛みを感じないのですね。大動脈をちぎるとそこからの出血は左の胸腔内にだけ溜まるので、出血はありません。15秒ほどで羊の目の光がスーッとなくなり、平成19年6月26日午前10時23分、死亡が確認されました。あとは一気呵成に皮をはぎ腑分けをして行きますが、それも見事な早業でした。 さてその可哀想でならない羊くんの肉の処遇です。熱した石で蒸し焼きにしますが、これがもう実に驚くほどの美味ではありましたねぇ。湖に突き出した天橋立のように細長い砂州の先端で、3方を湖に囲まれたまばらな松林の中での昼食でした。湖面を渡ってきて吹き抜けていく風が実に心地よい。さて調理には、50リッターは入りそうなアルマイトの容器を使います。その形はというとヤクルトの入れ物がありますね、小さなプラボトル。あれを巨大にしたような容器の中に羊の骨付き肉を敷いて岩塩をふり、その上から焚き火で焼けた石を入れたらまたその上に肉を置いて塩を振り、また焼け石を置く。この繰り返しで、肉に火を通すとともに味を付けていきました。・・らしい。ちょうどこの頃私は手術道具を取りにキャンプへ往復して、すぐその後処置にかかりましたので詳細は不明です。しかし私が戻って怪我人の処置をしている間、仲間の皆さんには食べずにじっと待っていてくれる・・ような方は・・ひとりもいませんでした。それはそうでしょう、こんな美味しいものは非情になって熱いうちに、どんどんハグハグと食べてしまわないといけません。にじみ出た肉汁がまた絶妙のうまさで舌に迫ってきて、騎馬に疲れた心身を癒してくれる。マトン特有のあの臭みはまったくありません。むしろ肉そのものに快い匂いがありまして、羊くんが香草を食べているために、その肉もまたいい匂いがするのでしょう。10数名がお昼と夜も食べてまだ余るほどの肉の量でした。ほかの内臓はむろん、血も腸詰につくりボイルして食べるそうですが、これらは責任者の意向で現地の方たちに寄付しました。ムム残念。調理の費用やお昼の場所代も全て含めて羊一頭、70米ドルでしたが、それでも「ちょっとぉ、高いぞ」ということでした。そうそう、モンゴルではアメリカドルが堂々とまかり通るというより、一番喜ばれるようです。 特記事項2.オルティンドウ、ホーミー
以上です。 汚く終わって済みません、長々とお付き合いを頂きまして有り難うございました。 |
今年(平成19年)12月16日、第19回イザワオープンテニス大会決勝戦を観てきましたので、私なりの感想を述べさせてもらいます。 私は、ずっとテニスを楽しんできましたが、プロのテニスの試合は、テレビでの観戦は別として、これまで古くはジミーコナーズ、ジョンマッケンロウ、ピートサンプラスなどのスーパースターが来日した時に、ごくたまに観にいくぐらいで、ほとんど観たことはありませんでした。今回、友人から、イザワクリスマスオープンのチケットをもらい、たまたま16日決勝戦の日の予定がなかったので行ってきました。 当日、10時開場、11時試合開始というので11時過ぎに試合会場である神戸ワールド記念ホールへ入りました。じきに試合が始まるかと思っていますと、バンド歌などのアトラクションが続き、テニスの試合にしたら少しにぎやかな、まるでボクシングの試合前のようでした。コートチェンジのさいにもにぎやかな音楽が流れ、クリスマスなのでまあいいかなとも思いましたが、もう少し静かな方がテニスの試合にはふさわしい感じでした。以前大阪府医師テニス協会報で原先生が提議された西医体の応援合戦を思い出しました。 さてテニスの方ですが、11時30分頃にようやく開始されました。女子決勝は米村明子選手と大西香選手でした。米村選手は一昨年プロに転向し、今年全米オープン予戦にも参加した注目の若手プレイヤーです。お姉さんの米村知子さんも名選手で、昨年は知子選手が優勝しています。ちなみに知子選手のご主人は、高槻市医師会のドクターで、来年より大阪府医師テニス協会の理事をお願いしています角辻格先生です。角辻先生も名選手で、医師レベルをはるかに超えたプロ級のテニスの腕前をもっておられます。大西選手は園田学園の4年生で、今年全日本インカレで優勝した有望株です。 試合は米村選手が高い打点からのフラットに近い力強いストロークでまさり、またドロップショットも随所にきめて第1セットを6-2で先取し、試合を優勢にすすめました。しかしながら、大西選手も特に強いという決め球はもっていませんでしたが、粘りをみせ、第2セットは逆に6-3でセットを奪い返しました。最終セットは両者譲らず、接戦で、米村選手が6-5より、デュースを繰り返した後、ゲームをキープし初優勝しました。ゲームを観た印象ですが、両選手とも一発のショットの切れ味はさすがと思いましたが、世界のトッププロの試合と比べますと、ラリーがあまり続かず、少し単調な感じがしました。上をめざすためには、もっとつなぎの球を上手く打って、緊迫したラリーが続けられるようにする必要があるように感じられました。しかしながら、テニスが攻撃的で、昔の女子テニスのイメージからは格段の進歩がみられていると思いました。 次の男子決勝戦の前に、ゲストの伊達公子さんと浅越しのぶさんのインタビューと会場の観客の中から選ばれた人達との、ダブルスの簡単なデモンストレイションマッチがあり、会場をわかせました。
以上、とりとめもなくイザワオープンテニスの感想を述べました。
ホームページ担当 事務局 原統子です。
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『噛ませ犬』(2007年度会誌より)京都府立医大名誉教授 高槻市 藍野病院院長 近藤元治![]() 学生「先生は、何年テニスをしておられますか?」 私 「そうやなあ。半世紀というところかなあ」 学生「半世紀って、50年ですね。ボクの親父が48歳ですから、それより前なんだ」 私 「もっとも、長いことしてたら上手になるというわけでもないしなあ。 最近はパワーが落ちているのを感じるわ。君たちの溌剌としたプレーがうらやましいよ」 学生「先生は、もちろん高校時代からの経験者だったのでしょう?」 私 「いいや。ワシらの頃は、高校で硬式テニスをしとるところは少なかったな。 ほとんどが軟式やった」 学生「じゃあ先生は、医大に入ってからテニスを始められたんですかあ?」 私 「入学してテニス部に入ったのが10人で、そのうち2人が経験者やった。 はじめてラケットを振ってもボールに当たらず、先輩たちにからかわれるのが悔しくてなあ。 そのかわり、素人集団が結束してすごく練習したもんだよ」 学生「コーチを呼んできたのですか?」 私 「いいや。その頃はコーチなどいないし、今のようなテニス雑誌もなかったからなあ。 上手な選手のフォームを真似したり、そうそう旺文社からテニスの本が出て、 それの分解写真を見ながら研究したもんや」 学生「分解写真・・・・・ですか?」 私 「そうや。今はビデオもあるし、クラブに行けばレッスンも受けられる。 恵まれた環境やから、上達するのも早くなったなあ」 学生「じゃあ、どちらかと言えば我流の練習だったんですね」 私 「それでも良く頑張ったのを先輩が認めてくれてね。 1回生の終わりに〈教養課程〉のわれわれと〈専門課程〉が試合をすることになったんや。 上級生は素人集団をバカにしていたから、ひとつ可愛がってやろうか・・・・・ というムードさ。負けたらスキヤキをご馳走してやる、とか何とか言ってね。 餌につられて、発憤したもんや」 学生「で、どうなったんですか?」 私 「物のない時代でねえ。それまで、ワシらの練習といえば、 先輩が使ってすり減ったボールしか貰えなんだから、それに石灰をまぶせて白くし、 水を含ませて重くして打ち合っていたんや。ところがいざ試合になって驚いたね。 白いボールに字が書いてあるやないか。あの時は驚いたなあ」 学生「ボクたちには、想像もつきませんねえ」 私 「結局、初心者と舐めてかかった先輩をワシらがやっつけたんやから、大金星や。 スキヤキが旨かっただけやのうて、大きな自信につながったのも忘れられん思い出や」 学生「先生が特に集中して練習されたのは、何でしたか?」 私 「サービスの練習は、ひとに負けんほどやったなあ。 平安神宮の近くに、昔、進駐軍が使っていたガレージのコンクリート壁があったんや。 毎朝そこで、ボールが割れるまで一人でサービスの練習をしてたなあ。 それから大学に行き、授業もそこそこに練習に明け暮れたもんやった」 学生「サービスは相手がいなくても練習できますからねえ」 私 「あの頃のワシのサービスはスピードがあったから、国体選手にも早さでは引けを取らなんだよ。シングルスが好きでね。ファース ト・サーブもセカンドも同じやったから、4本に1本サービス・エースを取れば、勝てなくても負けないやろう? そんな信念みたいなものがあったなあ」 学生「それで、今でも先生のサービスは格好いいんですね」 私 「それよりも、お前たちのサービスは頭を使っていると思えんなあ。 たとえば野球のピッチャーを考えてみい。 球種がストレートとカーブしかなくても、スピードを変え、 内外角や高低をを考えて投げ分けるやないか。サービスも同じや。 球種を考え、フォアやバックに打ち分けなんだら、攻めにならんやろう」 学生「では先生。そろそろお願いします」
春と秋、京都府立医大では「OB戦」が行われる。
大学を卒業して、関連病院への出張とアメリカ留学の4年間を除き、定年退官するまで33年間大学に籍を置き、時間があれば学生の朝練にも参加してきた。おそらくOBの中でも、私が一番よくテニス・コートに顔を出した勘定になるだろう。 そのOB戦のとき、ここ20年にわたり恒例になっている「キャプテン狩り」と名付けたシングルスの試合が早朝に行われる。OBたちが集まる前 に、私が新キャプテンとゲームをするのである。これは勝敗は兎も角、キャプテンにはプレッシャーがかかるようで、試合前に緊張している様子が可愛らしい。 私の若い頃は勝つゲームが多かったけれども、最近では(決まった)と思うボールが彼らの脚力で返されたり、思わぬところでこちらにイージー・ ミスが出るなど、次第に分が悪くなってきている。それでも、彼らのトップ・スピンのボールをスライスや変化球で返して面食らわせたり、サービスで攪乱させ るなど、私には楽しい一日になっている。 今年の秋は、10月に高松で行われた全日本医師テニス大会で痛めた足をテーピングしてのシングルスになった。ゲームの途中で逆をつかれて体勢が崩れ、不覚にもスリップして尻餅をついてしまった。10人ほどの学生が駆け寄ってきた。 「大丈夫ですか?」 「何ともないよ。平気だ」 「休憩されますか?」 「いいや、大丈夫や。続けるぞ!」 学生のいたわりを込めた(?)言葉を無視して試合は続けられたが、こちらは不細工にひっくり返った恥ずかしさが一杯である。 数日後、ゴルフ場の風呂場で友人に指摘されたが、臀部に大きな青あざがついていた。
OB戦のあとはコンパである。最長老(?)としての私の挨拶である。 「君たちは、『噛ませ犬』っていうのを知っているかい?」 「・・・・・・・・・?」 「土佐犬なら知っているね?」 「闘犬のことですね」 「そうだ。土佐の日本犬に外来のマスチーフやグレートデンなどの血を混ぜて、闘犬に仕上げたんだ」 「相撲のように、横綱や大関といった番付があると聞きましたけど」 「ああ、そうや。強い闘犬を育てるためには、勝ち癖をつけてやらねばならん。そこで、かつて横綱を張ったような試合巧者の老犬に口輪をつけて相手 を咬めないようにして、若い犬と闘わせるんや。若犬は自分が傷つかずに相手を攻撃できるから、次第に試合のテクニックを覚え、自信を持つようになるんや。 こうした老犬を、『噛ませ犬』という」 「・・・・・・・・・・」 「これまでの私は、〈キャプテン狩り〉を含め、OB戦などでは若い学生諸君に勝ちたいと思って真剣にゲームをしてきた。これは相手をしてくれた若いOBなら知っていると思うが、恥をかかんように自らの技術を磨き体力を鍛えるよう努力をしてきたつもりや」 「先生は、ゲームになると手抜きせずに真剣でしたから、こちらも緊張しましたよ」 「その私も、今年で古希になる」 「古希っていうと、う~ん。70歳でしたね」 「今日キャプテンと試合をして思ったんやが、本日を境に、私は君たちの『噛ませ犬』になってやろうと決心したよ。パワーや脚力では君たちに勝てんから、勝負は考えない。だが私のテクニックはまだ棄てたもんやないから、それを君たちに盗んで欲しいんや」 「もちろん先生も、口輪をつけて下さるのでしょうね?」 「あは、はは。それじゃあ君たちのためになるまい。『噛ませ犬』だって逆襲することもあるから、安心してたらひどい目に遭うかも知れんぞ。老犬も日向ぼっこだけではなく、密かに牙ならぬ技を磨く努力をしているかも知れんぞ」 「あ、その目! 口とは裏腹に、闘争心がメラメラと燃えているようですよ」 「これはいかん。君たちに見破られるようでは、まだまだワシも未熟じゃなあ」 「先生。朝練にも来てくださいよ」 「早起きは得意やから、せいぜい参加するよ。それよりも君たちは子供の頃から、勉強にしろスポーツにしろ、〈教えて貰う〉〈与えて貰う〉という習慣がついているやろう? これからは〈自分で何かを見つける〉という習慣をつけにゃいかんぞ」 「たしかに、教師やコーチに言われる通りにすれば良かったですからねえ」 「卒業して医者になり、いろんな患者に出会うことになるやろうが、本に書いてあるマニュアル通りにいくとは限らんことばかりや。経験豊富な先輩か ら〈何か〉を盗むのも大切やし、〈患者という教師〉から得られるものも多いはずや。そうした努力次第で、良い医師になれるかどうかが決まってくるもんやか らな」 「分かりました。テニス・コートでは先生の全てを吸い取りますから、覚悟していてくださいよ」 「お前たちに吸い取られて何も残らんようになっては、ワシもおしまいやな」 「大丈夫です。先生には我々の、若いエネルギーを差し上げますから」 |
テニス部とロマネコンティ(2007年度会誌より)高槻市 川口医院 川口憲明![]() “ロマネコンテイのワイン会をテニス部でやりませんか?” 前年ソムリエールの免許を取られた中嶋先生の奥様の言葉がその発端であった。 それまで小生は赤ワインに興味がなく、白ワイン一筋。それもフルーテイなドイツワインしか飲んだ事がなかったのである。赤ワインといえば、“色と 香りだけのもの”、渋い上に酸味が強く、土臭い味が気になり、一度たりと美味しいと思ったことがなかったのである。どちらかと言えば赤ワインを飲む時は、 単に格好をつけて雰囲気のみを楽しんでいたと言っても過言ではあるまい。 “ロマネコンテイと言ってもたかが赤ワイン。ブランド名だけ先行してあまり美味しくなく、ただ単に西洋人が格好をつけるために高額な値段をつけて売っているのにすぎないんじゃないかなあ?”というのが本音であった。 まあ話の種にもなるし、一度は経験するのもいいだろう。 最近のテレビ番組で紹介されたロマネコンテイ1本の価格は約100万円。当時中嶋夫人が行きつけのワイン店で好意的価格で手に入れて頂いたのが35万円。 35万円が安いか高いか?・・・・・・やはり高いでしょう! 中嶋夫人が一番心配されたのは、“この35万円のワインが腐っていないか?”ということであったらしい。この世界ではワインが腐っていても“たまたま運が悪い”ということで片付けられ、文句を言える筋合いではない“との事であった。 “一生に一度飲めるか飲めないかのロマネコンテイ・・・・・”ということで部員並びに奥様方約20人が1本のワインに群がりました。オリを落として一人ほぼ30ccで2万円弱です。 さて、初っ端からこの貴婦人を賞味できたかというと、さにあらず。最初はシャンパン、白ワイン、普通の赤ワイン。我々部員が持ち寄った平 均的な日常ワインがコース料理の前座を務めたのである。客を焦らせるというのも味を高める常套手段なのでありましょう。それらの企みに抵抗することなく私 達は主役の登場をじっと待ったのでありました。 ひとかどのコース料理、ひとかどのワインがその役目を果たした後、やっと貴婦人は姿を現しました。 赤ワインなのに琥珀色に近い色調。 甘い動物的なフェロモンの香り。 味が問題です。 一口目、普通のワインより少々マイルドな味?? しかし余り変わりばえがない??? それほど美味しくない???? 暫くして中嶋夫人が言いました。“この味を覚えておいて下さい。これから徐々に変化してきます。”――――――――本当かいな?? しかし摩訶不思議。時間の経過にしたがって硬さが消え失せ、まろやかなフェロモンに満ちた上品な味わいが口中に広がります。夢のような感触です。 “今が頂上です。”と中嶋夫人。 至福の時です。そしてこれがロマネコンテイなんだ!! 飲み干すのが惜しくて少々残しておきました。 しかし間違いでした。その後15分位から酸味が出てきて、20~30分で舌を刺激するようになり、さすがの貴婦人も色あせた老婆に変身しました。 一瞬の刹那を楽しませ、はかなくも消えていく高価な夢のショーの終焉です。 ![]() このワイン会以後、私共(高槻医師会テニス部員)はワインに取り付かれることとなり、数10分の夢のような陶酔を求めて毎年2~3回ワイ ン会を持つようになったのです。無論、ロマネコンテイというわけには行きません。色々なワイン、フランス~イタリア料理が私達を満足させてくれます。テニ ス部が一転して“高槻医師会ワイン~アル中会”の結成となります。 自慢じゃないですが、我がクラブはテニスレベルに関しては高いとは言えません。お世辞にも無理です。そしてそれは断言出来ます。(少々 くどい)しかしワイン好きに関しては相当なものと自負しています。テニス部例会の出席率よりもテニス部ワイン会の出席率の方が抜群にいいということがそれ を証明しています。 ソムリエールの中嶋夫人の指導宜しく、私どもは今後様々な国、地方、年代のワインを求めて楽しみ、さまよって行くことになるでしょう。これも、初っ端から一番美味しいロマネコンテイを飲んでしまったからであります。 ![]() さて、私にとって テニスとは動に楽しみを求めるもの、 ワインとは静にロマンを見いだし、語らいの騒音に安らぎを感じるもの 一人でもよし 妻と二人でもよし 友人達の狭間でもよし |
異常事態 西医体(2006年 西医体観戦記)豊中市 緑ヶ丘病院外科 原文雄母校の監督を拝命したので、27年ぶりに西医体を覗いてきました。 ストロークなどの技術の進歩への言及は敢えて省略します。 コート上は噂以上の異様な恥ずべき光景の連続でした。 例外なく全ての大学で、サイドラインに陣取った”応援部隊”が1ポイント!! 終了毎にコート内に入り込みプレーヤーに駆け寄って数名で取り囲みます。 プレーヤーに対してパラソルをかざし、氷嚢で頭頚部を冷やし、団扇でアオギ、 汗をふき取ってやります。 同時に”良くやったアンタはエライ!”とか”ポイント取られたけどドンマイ!” とか大声でハヤシ立てます。 毎回30秒以上同じ騒ぎが繰り返され”応援団”がサイドラインに戻って オモムロに次のサーブが始まります。 1ポイントでこの状態ですから1ゲーム終了時、ましてやチェンジコート時の 騒動、時間浪費は推して知るべしです。 プレーヤーのマナーの悪さも目につきました。 ポイント取ってネットまで駆け寄り拳を突き出して”カモン!”などと相手を挑発します。 非スポーツマン的行為の博覧会です。 相互審判制度ですから後輩、同僚のジャッジに対しても文句をつけます。 インジャリー、トイレット、果てはコンタクトレンズ休憩・・・・・ ありとあらゆる遅延行為がまかり通っています。 当然試合は長引いて翌日持ち越しは茶飯事です。 私が管理人ならこういう集団に二度とコートは貸しません。 通りがかった部外者が騒乱を見て”呆れ”を通り越して”変質者グループ”と認識していました。 ”イガクブの学生さん達らしいよ”って声をひそませていたのが耳から離れません。 いつからこんな事態になったのでしょうか??? ”昔は”とか”紳士的たれ”とか言うつもりはありません。 ただ多くの学生さんは知識が無いと思われますがテニスにもルールブックがあります。 各ポイント間は最長20秒かつ休憩目的使用禁止、チェンジコートは最長90秒、 セットブレークは最長120秒、試合前練習は最長5分、プレー中外部からの全ての助言禁止、 対抗戦で1名の監督のみ付き添い可、倫理、服装規定・・・・・・ ・・・上記に対する違反規定・・・・ 全てが記載されています。 ルールブックに従わない者はテニスする資格はありません。 勿論、個々の学生さんを非難しても無意味なことは分かっています。 問題の根源は医学部テニスの閉鎖性です。 ”井の中の蛙”外界を見ることなく育った学生さんは現状を当然と理解しているはずです。 準鎖国を続けている間に歪んだ形式が定着したようです。 医学部テニスの常識は世間の非常識であることに 早く気付かせて膨大な時間の浪費を終わらせる必要があります。 東医体ではすでに”応援”に名を借りた遅延行為に禁止合意ができていると聞きます。 西医体では各校間の意見調整の場の欠如も組織的な欠陥です。 以上より2段階に分けて私の意見を提示します。 1段階目は速やかな実施が必須と思われるものです。 A)テニスルールハンドブック完全準拠 応援の禁止、もともと対抗戦においても一名の監督を除きプレーヤー以外は コート内に立ち入ることは禁止されています。 遅延行為の禁止。その他禁止行為違反に対するポイント、ゲームペナルティの厳格実施。 B)トイレット以外全てのブレーク禁止。 特にインジャリータイムが目的外利用されているのが不快でした。 2段階目は西医体に対して私個人が導入を推奨する事項です。 A)母集団が数百人という医学部が一般大学の”王座決定戦”を模倣することに 無理があります。男子の場合6人レギュラーに固執するなら単4本、複1本で勝敗を 決してはいかがでしょう?単複選手重複を禁止して6名。試合順も不問になり 5面でやれば2時間でケリがつきます。 同様に女子は単2本、複1本で選手計4名ですね。 別に単3、複2でも何でも構いません。単複重複出場禁止がミソです。 オーダーも良心に従って実力順で出し合えば更に気持ちが良いですね。 B)遠来にもかかわらず早く勝負が決して味気無いというのであれば ワールドカップサッカー方式です。予選リーグで8校か16校に絞ってあとは決勝トーナメント。 ちなみにA)方式単複重複禁止でやれば1日2試合は可能です。 予選リーグは4-5校1リーグが適切と思われます。 C)やはり居ました。延々ロブ上げてるヤツ。これは選手個人のテニス技能上達を阻害します。 これにはローカルルールで対応です。”90分シバリ!!!” 各セット開始後90分を経過してもそのセットが終了しない場合は90分経過時点を ラストポイントとします。90分経過時点で1ゲームでも1ポイントでも勝っている方を そのセットの勝者とします。 普通にやれば90分でセットのケリはつくでしょう。 当然プレー外遅延行為禁止が大前提です。 D)相互審判の廃止。 セルフジャッジで十分。自分の良心、視力に自信が無いなら 中立大学からソロチェアーアンパイアーを派遣しあう。 E)副審、球拾いの廃止。 選手なら自分で走って取りにイカンカイ!!!!! ゴメンナサイ、思い出したらついついムカッ腹がたってきました。 私見に対して先ずは各校OB重鎮の皆様のご評価賜りたいと思います。 賛同頂ければ、各大学に”こんなこと言ってるヤツが居る”とお伝え下さい。 ウチの関西医大は今秋から何としてもルールブックを守らせます。 原文雄 |
筋トレのすすめ(2006年度会誌より)亀岡市 亀岡市立病院麻酔科 橋本朋子![]() 何か柔らかい話を、と会誌の原稿を依頼されましたが、根が「くそ」がつくくらいのまじめ人間で、 日々くそまじめに麻酔と外来ペインクリニック業務をこなしていて、ちっとも柔らかい話を思いつきません。 申し訳ありませんが、私の堅い体と筋トレの話をさせていただいていいですか? 最近では医師会のテニスの試合に行くと懇親会などで筋トレをお勧めすることが多くなり、 橋本といえば筋トレ、といわれている(へっ?いない?)私ですが、筋トレを始めたのはもう7年くらい前になるでしょうか。 そのころちょうどダイエットを思い立ち、食事療法と運動療法を併用すべく、ダンベル体操を始めました。 私がもう9年もスクール生として通っているテニスクラブには立派な設備の整ったフィットネスルームがあります。 レッスン前にそこでもダンベル体操をしようと出かけたところ、同じレッスンを受けているちょっとエッチなS氏に捕まりました。 S氏は現在65歳の自称元ボディビルインストラクターです。 テニスは当時まだまだ初心者だったのですが、週に3,4回もレッスンを受け、いつもフィットネスルームでバーベルを持ち上げたり 腹筋を何十回とやったりしているものすごいマッチョなおじさんです。 すぐに話題が下半身方向へ進むのでちょっとおそれられていましたが、根は本当に気のいい親切な方で、 私に器械の使い方、負荷のかけ方、どれくらいのサーキットトレーニングからやればよいか、 などなど(聞きもしないのに)それは丁寧に文字通り手取り足取り(時には腰にも手を添えて) 指導してくださいました。 はじめは引き気味だった私でしたが、いわれたとおりのメニューを3~40分もやると普段の 凝ったような堅い体がなんだかすっきりとよく伸びて柔らかくなったような感じがしました。 それからは根がくそまじめな私は、始めたからには続けようと決心し、週に2回はレッスンに行き、 そのたびにS氏におだてられほめられつつ筋トレをしました。 (レッスン生はフィットネス使用料無料だったのです!このことも継続の強い後押しとなったのは事実です。) ![]() S氏の指導で少しずつメニューを増やし、負荷をかけていきました。 器械による筋トレは、5キロ、7キロ、10キロ、と負荷をふやしていく過程が数字で明らかなので非常に励みになり、 よーしもっとがんばって見ようという気にさせられます。 また、どの器械による運動がどの筋肉を使うトレーニングなのかがはっきりしているので、 慣れてくると自分が使っている筋肉に意識を集中することができるようになりますし、 自分が特に弱い筋肉、ここを強化したい、と思う筋肉について意識してトレーニングすることができます。 でも、筋トレは筋肉をむきむきっとつけることができるほどしようとすれば並大抵のトレーニングではありませんよね。 私のレッスン前の筋トレは、S氏の指導により、筋肉を柔らかく保つことがその極意であると学びました。 半年ぐらいたつと、ダイエットの効果で体重は7キロ減り、それまで時にしくしく痛んだ膝が、 テニスをしても全く痛まなくなり、走り続けられるようになりました。 はじめは調子よくスマッシュやサービスが入っていても、3~4セット続けると確率が悪くなっていたのが、 背筋のトレーニングをしてからは、長時間にわたり肘が高く挙げられるようになって、 スマッシュもサーブも楽に打てるようになりました。 本当にいいことばっかりやん! 私は体が堅くて(頭も堅いけど)、筋肉もかちかちになりやすいので(試合になると精神的にもかちかち)、 特にレッスンや試合の前に筋トレをして、筋肉を柔らかくすればけがや故障も防げる、とS氏にいわれましたが、 その通りだと実感しています(頭を柔らかくすることは筋トレでは無理です)。 ![]() いいことばかりの筋トレですが、問題はあります。 一つには体質にもよると思いますが、私はそもそも筋肉質で力持ちだったのですが、 筋トレを細々とながらも続けているためか、肩や腕の脂肪が落ちて、筋肉がムキムキっと盛り上がってしまいました。 子供たちにお願いやからお母さんノースリーブの服きんといて!といわれるし、 前腕の筋肉もついたので細身の洋服の袖が……えっ!通らへん!!ということになるし、 美容院でマッサージをしてもらうと、肩が凝ってるわけではないのに肩の筋肉をさわった美容師さんに、ひどく肩凝ってますねー、 盛り上がってますよ、とかいわれちゃうし。 なで肩で筋肉のつきにくい、ぷよぷよっとした体の夫と比較すると男女を入れ替えた方がいいくらいです。 でも筋トレを続けるにはある意味ナルシストになりきらなあかん、と思っています。 筋肉ついてるからだはきれいやなあ、おなかが縦に割れててかっこいいなあ、と鏡を見て 自分をほめているわけです。(私は変?) ![]() ところで私はペインクリニックをやっていますが、腰痛、肩こりなどの患者さんがたくさんおられます。 治療に際してはどうしてもペインクリニックの技術を駆使することが主眼となってしまい、 つい神経ブロックに頼ってしまいますが、このごろはそれだけでなく、自分でも腰痛体操や肩凝り体操、 ストレッチなどを少し勉強して、患者さんに日常生活の中にそういう運動を取り入れていただくよう指導しています。 患者さんの性格にもよりますが、メニューや回数などを計画して差し上げると、 毎日こつこつ実行され、調子がよいといわれて感謝されることもたびたびです。 これからの医療は予防が大切になってきますし、寝たきり老人を作らないようにするためにも、 40歳代からの筋トレ、というのをどこかで提案していきたいものだと思っています。 (なーんて大きいこと言ってますが最近忙しくて筋トレ時間が十分とれないのです。 医師会のテニス仲間に筋トレをお勧めしても、やはり場所と時間がとれないと言う方が多いのが現状です。 家庭でできる有効な筋トレの方法を考案しなくてはいけませんね。) これから年齢を重ねるとともにテニスを続けるためには下肢の筋力がものを言うようになると思います。 (私も最近腰痛が....) 膝や腰に弱みをお持ちのみなさん、筋トレしませんか? 一人より二人、二人より三人、筋トレ仲間を増やしましょう! テニスの技術も磨かなあかん。体だけでなく頭も柔らかく保たなくては。 根がまじめで堅い体と頭の私のテーマはまだまだたくさん。 がんばります。 |
テニスはやっぱりシングルス! 何が何でもシングルス!!(2006年度会誌より)港区 大阪船員保険病院放射線科 中西克之![]() 原文雄先生より投稿のご依頼をいただいて以来、まずタイトルをどのようにしようか、悩み続けました。 悩んだ挙句、「テニスはやっぱりシングルス」という気障でしかも地獄に落とされるようなタイトルにしてしまったことを、 多少後悔しております。 私はテニス歴が長いにもかかわらず上手くなりません。 かと言って他のスポーツを今更始めようとも思わず、多くの方々と同様、筋力維持とプレー後の 美味しいビールを目的に週1回1時間のペースでプレーしております。 テニスとの出会いは清風南海高校1年の時、一応テニス部に入りました。 しかし、進学校で何かと運動部にはうるさく、何となく燃焼しきれず1年半でやめてしまった自分にとって、 高校3年と1年間の浪人期間、大学に行けばもう1度ちゃんとやってみたいと思っていました。 そういう意味では本当にテニスに出会えたのは、やはりちょうど原先生が主将をされていた 全盛期の関西医大硬式庭球部に入部したときだったと思います。 その4年後に、私も主将を勤めさせていただきました。 もちろん、この大学6年間での経験はテニスに限らず自分の今の人生にかけがえのない 財産になったことは間違いありません。 しかし、その頃のプレースタイルやプライドだけでは今のテニスはどうにもならないように思います。 これはラケットの改良やクレーコートの減少が招いたテニスの変化が原因でしょうか。 今では昔教わったテニスの常識を忘れ、「腰を落とさない。」「横を向かない。」 「無駄に足を動かさない」の3点に気をつけ、一番大事な「力をぬいてラケットヘッドを走らせる」 ことにつなげようとしているのですが、なかなかうまくいきません。 何はともあれ、大学テニス部での生活を終えようとした時は、 「もうこんなしんどいスポーツは嫌だ。ゴルフに転向しよう。」などと、考えたものです。 現に卒業後、大阪大学放射線医学教室に入局した私はむしろゴルフに走っていました。 しかし、当時の教授がテニス好きだったこともあり、最低限の「接待テニス」はしていました。 そんな自分に再びゴルフに見向きもせず、テニスに走らせたのは- - 。 それは留学であったと思います。 私は1993年の2月から8月まで、ドイツ連邦共和国のアウグスブルグ中央病院 (南ドイツ、バイエルン州でミュンヘンの隣町と考えていただきたい)に留学をしていました。 当時の私の上司であった阪大放射線科小塚隆弘教授がアウグスブルグのProf. Bohndorfへの 私を紹介する手紙の中で” He is a good tennis player.”という一文がありました。 ![]() 留学中の93年3月、スイスのダヴォース(Davos)で学会があったある日のことです。 「学会のアトラクションでテニス大会がある。夫婦で参加してみたらどうだ。 参加する限りは優勝してこい。でなければアウグスブルグに帰ってくるな!」と厳命されました。 てっきり夫婦のミックスダブルスと思い込んでいた私たち夫婦は体育館に行ってみてびっくり、 シングルスの大会だったのです。 その時の試合結果は忘れましたが(おそらく優勝したと思う??)、以後も留学中、 お世話になった友達夫婦とよくテニスをしました。 当時のドイツは、グラフ、ベッカー、シュテッヒなど、テニスの全盛時代、 サッカーと並ぶmajor sportsだったと記憶しています。 最初、私の裁量で自分たちのアパートの近くのテニスコートを予約して彼らを招待しました。 日本人的感覚で、夫婦合わせて4人で1面のコートを確保し、ミックスダブルスを始めた途端、 相手夫婦は何やら早口のドイツ語で口論を始めました。 後で話を聞いてみると、”Wir haben nie Doppel gespielt”(ダブルスをやったことがない)、 従ってどこに立ったらいいかわからず、口論をしていたようなのです。 さらに彼ら曰く、「我々は、普通ダブルスはしない。 それに夫婦でそんなことをしたら喧嘩になるだけじゃないか。シングルスをやろう。」 以後、私は友達のdoctorと、家内は彼の奥さんと別々な場所でとことんシングルスをやるようになりました。 季節も4-7月、ヨーロッパが最も美しい時で、夜は10時まで明るく、しかもコートはアンツーカー、夢のような思いでした。 今、医師会のホームページで世界医師テニス大会のヨーロッパでのお話を拝読すると、 この時の想い出が鮮やかに甦ります。 実際シングルスをしてみると、さすがはドイツ人、無茶苦茶にパワフルで、私の友達など、 2時間みっちりとシングルスをしたあと、大ジョッキーのビールを飲み干し、これから病院の NachtDienst(当直)と言ってけろっとした表情で仕事に行ってしまいました。 とにかく、この半年の「テニス留学」は学生時代以来、すっかり忘れていたシングルスの楽しさと苦しさが自分の中で甦り、 「金と時間のかかるゴルフはやめ、やっぱりテニスだ。しかもシングルスだ。」との思いを強くしました。 それにしても何故、ここまで彼らはシングルスばかりなのでしょう? むしろ、初心者ほど、シングルスばかりしたがります。 ダブルスをやったところでformationはまるで駄目。これは日本ではちょっと考えにくいことです。 私が思うに、日本にはソフトテニスという独自の「文化」がある。 これを経験している人たちが自然にダブルスを中心に考えているところがある。 さらに日本では1面のコートを2人で占領する空間的、時間的、金銭的余裕がない。 こういったところが要因でしょうか。 それから12年が経ちました。 以後、忙しい現実の生活の中で細々とテニスを続けているだけでしたが 今年の3月、久しぶりに医師会のシングルス大会に参加させていただきました。 結果はともかく、へとへとになりながら、コートを占領できる幸福感に浸りきりました。 上述したように日本ではコート確保のむずかしさからか、底辺の草試合がどうしてもダブルス主体になっているように思います。 そんな中でいわゆる週1プレーヤーがシングルスをどんどんやる、このような環境になればもっとテニスが発展するのに、 などと考える私は変わり者でしょうか? ここまで書き、大学1年のときに原先生から言われた一言を思い出しました。 「1年生同士、遊びでゲームを楽しむのはいくらでも構わない。でも同じゲームをするのならシングルスをするように。」 ![]() アウグスブルグの室内コートでプレーをする筆者。 確かこれは3月、外はまだ寒く、室内でしかできなかったと記憶している。 ![]() 友達夫婦とテニスをした後で。 彼は身長190cm以上、足の長さが全然違う。サーブは凄かった。 |
私とテニス(2005年度会誌より) 旭区 伊藤小児科医院 伊藤 謙吾
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なぜ、今テニスをしているのだろう?(2005年度会誌より)
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テニスはいつまでできるかな(2005年度会誌より)池田市 前田クリニック 前田 育子![]() この前の秋、日本医師テニス大会が札幌で開かれました。学生時代からのパートナーの林先生と女子ダブルスに参加しました。京都大 会から、さいたま、札幌と、3回目の出場です。日頃の練習は、週2回近くのテニスクラブで、夫相手に半日程度をつづけていました。札幌でゲーム中右膝を傷 めてしまいました。10日たっても膝の腫れが退きません。整形外科受診しました。なにはともあれ、体重を減らしなさい。そうすればたいがいの不都合は解決 する。私の身長から計算すると、60キロまで減らしなさい。永い遠い目標を持つのが好いいんだと勧められました。はっきりいわないけど、膝は変形性関節症 になってるらしい。これは治らないとこまで進んでるんじゃないの。動かしたほうが好いの?安静にしたほうが好いの?なんでもいいから体重を減らそう。痛く なくて膝に負担のかからないことをして見よう。4ヶ月経って、目標体重まであと3キロになっても、膝は腫れます。このまま足が曲がらんようになるのかい な。動かしても、じっとしていても関節の中に水が溜まります。ああ私も、50代半ばやったんや。この膝は寄る年波ということか。夫は’テニスもうでけへん な’と、いいます。私は意地になって、テニスはやります。いつまでテニスできるか、いつできなくなるか、ほんとの所、わかりません。 テニス復活はなかなか思うように行かない一方で、傷めた膝を楽にするために始めたダイエットは私の生活に光明をもたらしてくれました。生まれて 初めてといって好いかもしれません、お料理するのが楽しい。玄米食、野菜料理。魚の料理献立を充実させて、しっかり食べてゆっくり痩せる。ガスレンジも傷 んでいたので新調したら、最近のは優れていますねー。台所に居る時間がたのしいです。あと少し体重を減らして、ぼちぼちとテニスをやれたらいいなと思いま す。できたら九州ウィンブルドンへ行く事を楽しみに。 猪名川町日生中央で開業していますが、ニュータウンの周りは田舎です。年取った地の女の人は、長い年月畑しごとをして、それは、体にきついこと だったでしょう。O脚で、腰が曲がり、膝が曲がらない。80歳を超えてもまだ畑にいくのがすきだといいます。畑の収穫も楽しみでしょう。しかし、畑の手入 れに雑草を曳いたり、土をさわるだけで、清清するといいます。 おもちゃを取り上げられたら、こどもがますますそれを欲しがるように、膝を傷めて、テニスという楽しみを失うのかと思ったら、それがますます大 切になりました。食事を考えなおすことが必要になって、自分自身だけでなく、自分の周辺の健康管理も見直す機会になりました。夫を含め、一緒にテニスして くれる人達みんな達者でいてね、怪我をしないでねと祈ります。 ![]() 「全日本医師テニス北海道大会にて」 ![]() |
”中古オムニ激安移植に成功した希な一例”(2005年度会誌より)豊中市 緑ヶ丘病院 原文雄
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テニス雑感(2004年度会誌より)豊中市 星野医院 星野 嘉明シングルスの3回戦でデユンゴ選手と当たりました。同じ年齢で16歳のはずでしたが、向こうは180センチ以上の長身で、筋肉隆々、打球の強さが全く違っていて、返球するのに苦労したのを覚えています。0-6、1-6のスコアで簡単に負けました。 その年、フィリピンから4人の高校生が招待されて参加し、単複とも1位2位を独占するという結果でした。優勝したホセ選手も180センチ以上あ り、高校生離れしたテニスで、その翌年フィリピンのデ杯選手に選ばれました。デユンゴはそのホセに負けて2位になりましたが、私にはとても相手にならない 感じがしました。 ちなみに同じ年の全日本ジュニア選手権で、私はやはり3回戦で、その年準優勝した村上選手(神戸高校)に負けました。村上さんは背も高く、実力 的には私より大分上だったとは思いますが、打球の強さはデユンゴ選手のような感じではなく、実際スコアも1-6、6-8と粘ることができました。 若いときのその経験から、自分の技術はともかくとして、大きな体格の選手の力のテニスにはとてもかなわないと思うようになりました。 テニスの選手として、身長の高いほうが有利なのは明らかです。でも背が低くても、技術的にうまいテニスで一流になった人も大勢居られます。見るテ ニスとしては、ショットの正確さや、コートカバーリングの速さでポイントを取るほうが面白いし、参考になる点が多く見られます。高いところから打ち込む サービスと、力任せのショットで勝つ試合を見ても、テニスの面白みは少ないし、われわれの参考にはなりません。 でも、プロの世界では、強打がないとなかなか勝てないようです。190センチ以上の長身で、ビッグサーバーと呼ばれるような早いサーブの持ち主なら、ストロークが下手でもある程度勝てるようです。 現在の世界ATPランキング10位までの選手の身長を調べてみたら、180センチ未満の選手は、コリア(アルゼンチン)と、グロージャン(フラン ス)の二人だけで、どちらも175センチでした。ストロークが上手なので、サービスやボレーがあまり目立たないアガシ(アメリカ)でさえ180センチある そうです。俊敏な動きとストロークのよさで、一時ナンバーワンになったヒューイット(オーストラリア)も、コートの上ではあまり大きく見えませんが180 センチあります。 このような大きな体格の選手たちと戦わなければならない日本のプロの選手は、本当に大変だと思いますが、何とかがんばってほしいと思います。あ の素晴らしい成績を残したローズウォール(オーストラリア)などは、日本人と並んでもあまり目立たないような体格だったように思います。 日本でも背の高くないチャンピオンは何人もいましたが、世界に出てみていたらどうだったでしょうか。 その点、アマチュアのテニスでは体格の大きさはあまり有利には働かないように思えます。特にドクターのテニスでは、小さいチャンピオンが大勢おら れます。ショットの正確さや足の速さがものを言うのでしょうか。私たちの参考になるようなプレーもよく見せてもらえます。 しかし、我々の様な年になってきますと、もう技術の向上は望めません。体力や集中力の低下は当たり前です。勝敗も二の次になります。何よりも故障せずにテニスを続けられるかどうかが一番大事になります。 昨年 私は、膝、股関節、腰、胃腸と故障続きで、テニスの出来ない日が何十日もありました。これからは、故障が出て当然の年齢ですから、何とかその程度を軽く、テニスの出来る範囲に抑える方法を考えていかねばと 思っています。 「S32年10月28日 於九州大学テニスコート 西日本医科大学体育大会にて団体2位になった大阪大学チーム 後列左から但野先生(監督),福田,石神,星野 前列左から高井,望月」 ![]() 「S48年10月10日 於服部緑地テニスコート 大阪府医師テニス大会 後姿ネット際:故小倉先生,後姿フォアーサイド 星野」 ![]() 夕暮れ時のテニス(2004年度会誌より)大正区 大阪府済生会泉尾病院内科 小西 正
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